日本における仏教の歴史 (わかりやすく簡単解説)

 

世界三大宗教の一つであり、約2,500年前に誕生したとされる宗教といえば仏教です。この仏教を細かく見ていけば実は無数の考え方があるわけですが、ここでは極力シンプルに概観してみたいと思います。

どんなに科学技術が進歩しても、人間の頭の中にはわからないことが何かしら残っています。例えば、人は「生きる」「死ぬ」ということを真に理解できてはいません。そして、多くの人たちは死ぬことを恐れています。

 

このような背景もあって、「命」の問題や生活の「不安」などをどのように考えたら安心できるのだろうか…といったことを教えてくれるのが宗教なのです。

ここでは、その基本とも言うべき「仏教」2,500年の歴史をわかりやすく簡単に説明していきたいと思います。

 

 

 

ブッダ (釈迦) の誕生日

日本ではどちらかというとお釈迦様の誕生日よりもイエス・キリストの誕生日 (クリスマス) を祝う風習の方が有名なのですが、それでも、仏教徒は (宗派に関係なく) お釈迦様の誕生日を尊んでいます。

お釈迦様の誕生日は日本では4月8日とされており、この日全国各地の寺院では「花御堂(はなみどう)」を作り、小さなお釈迦様の誕生仏を安置し、それに柄杓で甘茶を頭上からそそいで生誕を祝います。この祭りを「灌仏会(かんぶつえ)」や「降誕会(ごうたんえ)」「花祭(はなまつり)」といいます。

 

 

お釈迦様は実際に実在した人物で、本名はゴータマ・シッダールタといいます。シャカとは釈迦族出身を意味し、「釈迦牟尼(しゃかむに)」「釈迦牟尼世尊(しゃかむにせそん)」「釈尊(しゃくそん)」などと、聖者という意味で呼ばれています。

ゴータマ・シッダールタは2,500年前に現在のネパールのルンビニーという所で、父シュッドーダナ「浄飯王(じょうぼんおう)」と母マーヤー「摩耶夫人 (まやぶにん)」の長子でシャカ族の王子として生まれました。

 

 

 

原始仏教

紀元前500年前後、釈迦が生まれ、その後教えを説き始めます。釈迦が教えを説いた初期の仏教をここでは原始仏教と呼びましょう。

「人生は苦しみに満ちている。その原因は私たちの欲望にある。苦しみから自由になるにはその欲望から自由にならなければならない。」

 

これが原始仏教のエッセンスであり、あらゆる種類の仏教の土台となるコンセプトです。この欲望から自由になった状態を「涅槃(ねはん)」とか「悟り」などと呼びます。

「もっと便利な◯◯がほしい!」「美味しいものが食べたい!」「いつまでも若く健康でいたい!」「人に褒められたい!」「愛する人といつまでも一緒にいたい!」

 

 

 

 

このように、欲望にはきりがありませんが、その全てが満たされることはけっしてありません。欲望が満たされなければ人は苦しむわけですが、その苦しみの根は欲望にあるのです。

ちなみに「四苦八苦」という言葉は仏教用語です。この無限の苦しみから解き放たれるためにまず「欲望をコントロールしよう」というのが原始仏教の教えなのです。

 

 

 

小乗仏教

インドで生まれた原始仏教は、小乗仏教としてミャンマー・タイ・ラオスなどの国々へと伝わりました(「小乗仏教」という言葉は大乗仏教が勝手につけた蔑称なので、これを避け「上座部仏教」と呼ぶ場合もあります)。

小乗仏教では、厳しい戒律に従い、自分自身が悟りを開くことを目的としています。そのため、家族を捨てて出家する必要があり、異性に触れることすら許されません。いわば、「あらゆる欲望(煩悩)を捨て去るために修行する」のが小乗仏教の特徴と言えるでしょう。

 

 

今でも、「仏教国」と呼ばれる東南アジアの多くの国々では、オレンジ色の袈裟を着た小乗仏教のお坊さんがよく見られます。

 

 

 

大乗仏教

一方で、あらゆる欲望を捨て去ることが理想的な生き方になるのかという疑問も出てきます。小乗仏教では、出家して修行したわずかな「エリート」たちだけが救われることになります。では、「出家しない人」「煩悩を捨てられない普通の人」たちは苦しみから救われないのでしょうか?

というわけで生まれたのが大乗仏教です。「大乗」とは文字通り「大きな乗り物」という意味。。。

 

「自分が悟りを開くためだけに修行をするのはまるで『小さな乗り物』に乗るようなもの。大乗仏教では、誰もが救われるための『大きな乗り物』を用意しようではありませんか。」

こうして、エリート主義・出家主義・戒律主義の小乗仏教を糾弾し、「大衆を救うための仏教」として大乗仏教が作られていったのです。

 

 

この大乗仏教は中国で広まり、やがて日本にもやって来ます。したがって、日本にある各宗派は基本的には大乗仏教の流れを汲んでいます。

つまり、大乗仏教は小乗仏教に比べて良くも悪くも戒律の厳守にとらわれず、「緩やか」であるといえます。

 

 

 

不安な貴族たちの心を救ったのは…

昔々、人間の知恵は発達していませんでした。そのため、山・川・草・石など全ての自然物に神が宿っていると考えられていました。そして、人々は神の言葉通りに動き、自分たちの体や生活が安全であるよう神に祈っていたのです。

農業が始まると「水の神」「田の神」といった農業の神が考え出され、他にもたくさんの神々が生み出されていきます。そんな中、大陸から仏教が伝わってきたのです。日本で仏教が盛んになったのは聖徳太子の頃。。。

 

しかし、時代によっていろいろ性質が違ってきます。奈良時代の仏教は、国の政治に力をつける教えと考えられていました。仏教を信仰することが国の守りとなり、国を平和にするものだと言われるようになったのです。

奈良に大仏が造られたり諸国に国分寺や国分尼寺が建てられたのもこういう考え方がもとになっています。寺は学問のための大学であると考えられ、神社のそばに神宮寺が出来たりしたため、神と仏は接近していったのです。

 

 

平安時代には最澄・空海が天台宗真言宗を広め、暮らしの中で仏教の教えを生かそうと様々なおまじないやお祈りをするようになりました。

ところが、平安時代も半ばを過ぎると、藤原氏以外の貴族はたいして良い位につけません。そういう貴族たちの不安・不満な気持ちを救ってくれたのが浄土の教えだったのです。

 

 

 

鎌倉・室町は仏教が広まった時代

浄土教は源信や空也によって広められた教えで、念仏を唱え阿弥陀を信じれば、死んでから極楽に行って不安の無い暮らしができる…というもの。平安時代末、おおいに流行りました。

鎌倉時代には、この浄土教をもとにして法然が浄土宗を、その弟子・親驚が浄土真宗を興します。浄土真宗は、(貴族のみならず) 民衆の間にも広まっていきます。

 

 

そして、ちょうど元が攻めて来た頃、日蓮は「今までの宗教はみな間違っている」「もっと法華経を信仰せよ」と鎌倉の町を説教して周り、法華宗を始めます。

また、鎌倉時代には禅宗がとても喜ばれました。禅宗はじっと座禅を組み、「自分の力で心の迷いを捨てよ」という教えです。

 

このように、鎌倉時代になるといろんなタイプの仏教が新しく興ったのです。これらの仏教は、天台宗や真言宗と違ってあまりお金がない人でも信仰できました。そのため、広く民衆の間に広まっていったのです。

特に浄土真宗は、室町時代には民衆の力を集めてとても大きな勢いを持つようになっていったのです (鎌倉・室町の時代は仏教が広まった時代といえます)。

 

 

 

仏教と他宗教の関係

こうした流れの中、神社関係者は「このままではいけない」と考えるようになります。「神社って何?」「そもそも神とは何なの?」「仏教と神道はどんな繋がりがあるの?」

こうした議論の中、はじめは「神は仏が姿を変えたもの」という考えも。やがて、「神が仏に変わったのだ」という意見が強くなります。こうして、日本の神道は次第に形を整えていくのです。

 

一方で、室町時代にはフランシスコ=ザビエルが日本にやって来て、(特に西日本では) キリスト教が急速に広まっていきます。そんな中、次第にキリスト教が江戸幕府の政治の邪魔になっていきます。

徳川幕府は、張り付けや火炙りなどの刑罰をもってキリスト教を押さえつけ、さらにキリスト教を禁じるために、将軍徳川家光のときに鎖国が行われます。幕府は、キリスト教取り締まりのために「檀家の制度」をつくり、寺と民衆を結びつけていくのです。

 

 

これは、誰でもどこかの寺に名前をおき、その寺へお参りしなければならないという制度です。この制度で安心した寺は仏教を広め、人々の信仰を強くするような努力をあまり行わなくなっていったのです。

寺は戸籍を預かり、葬式をするだけのものになっていきます。ところがその後、江戸時代も末になると世の中は非常に不安になり、百姓一揆が起こるなど幕府の力はだんだんと弱くなっていきます。こういう不安な世の中で、金光教や天理教といった新しい神道の宗派が興ってくるのです。

 

 

 

新興宗教の登場

こうした流れで、明治の初め頃は神道が盛んでした。明治維新の力となった学問が、神道と深く繋がっていたからです。しかし、文明開化の世になるとキリスト教が流行します。

やがて、憲法で「信仰の自由」が謳われますが、本当の自由は第二次世界大戦後の憲法によって決まったのです。

 

戦後、人々は大きな不安に落ち込みました。江戸時代の末に新しい宗教が生まれたように、このときにも新しい宗教がたくさん生まれます。

古くから幾多数多の宗教がいくつも存在していたのですが、人々の心に触れるものがなくなってくると、新たに多くの新興宗教が栄えてくるのです。

 

 

さて、最後に、話を仏教に戻しましょう。

 

 

 

現在の日本の仏教について

原始仏教や小乗仏教は「欲望否定」の宗教です。ここでは、いかに修行して自らの欲望を滅するかが問題となります。これに対して大乗仏教は「欲望肯定」の傾向がある宗教です。人間の欲望を頭から否定せず、欲望の肯定にも否定にも「こだわらない」という、「空」の思想が強調されます。

この思想は、それまでの仏教に真っ向から挑戦する革命的な考え方でした。

 

ちなみに、この意味で最も「大乗仏教的」なのは密教でしょう。ここでは欲望の肯定が高らかに宣言されています。男女の性交でさえ、「清浄なる菩薩の境地」であると礼賛されているのです。

つまり、密教の教えは釈迦が説いた原始仏教と正反対の考え方になります。そう考えると、、、密教は「仏教」と言えるのでしょうか?

 

 

それはさておき、

以上をまとめると

 

①  原始仏教や小乗仏教は「欲望否定」の宗教

②  大乗仏教は「欲望肯定」傾向のある宗教

③  日本の各宗派は大乗仏教の流れの中にある

 

 

これを日本における仏教の基礎として、今後さらに宗教について学んでいっていただければと思います。

(最終的には利他の心をもって動ける人になっていただければと心より願っております)