世界と日本の「安楽死」「尊厳死」事情 〜 幸せな死に方とは…

 
スイス、オランダ、ベルギー、アメリカ、スペイン、日本。。。国が変われば、文化も価値観も大きく異なります。それは「人間の最期」のあり方についても同じこと。

「老いていくことは不幸だ」と感じていたAさん (80代のイギリス人女性) はスイスで自殺幇助を受け、わずか20秒で息を引き取りました。

 

Aさんは死の前日、このようなことを話しています。

「これ以上生きたら、せっかく良い人生だったものが衰退に向かうだけです。身体の衰弱によって素晴らしい思い出が失われてしまう。それだけは避けたいの……」

 

また、スウェーデンからスイスにやってきた末期がん患者のBさん (60代女性) は、無意味に生き続けることの虚しさについてこう嘆いていらっしゃいました。

「なぜ、(あと3ヶ月も) 耐え難い痛みを我慢し続け生きなければならないのですか?耐え抜くことで何か報酬でもあるのかしら…」

 

「安楽死」「尊厳死」をめぐっては、世界各国であらゆる議論が展開されていますが、未だ絶対的結論には至っていません。それほどに難しく、千差万別の見解が生まれる問題でもあるのです。

この記事を読んでくださっている皆さんの中には、「安楽死には絶対に反対だ!」「自ら命を絶つだなんて…」という死生観をお持ちの方もいらっしゃることでしょう。

 


 

ただ、一方で、「堪え難い心身の苦痛から早く解き放たれたい」「これ以上生き続けることに何の意味もない」といった考えのもと、「安楽な死」を選ぶ人たちが少なくないことも事実なのです。

人は皆異なる考え方を持ち、違う生き方をしています。「死ぬ権利」だってあるのではないでしょうか?誰ひとりとして、生き方を他人が強要するなんてできない…と思うんです。

 

ただ一つ、「安楽死」「尊厳死」に付随して守っていただきたい、願いたいことは、その「死」によって他者に余計な迷惑をかけないこと。
 

 

 

 

精神疾患にも適用される「安楽死」

世界的にみて、「安楽死」は以下の3つの条件が備わらないと決行できません。
 

①  本人の意思表示があること

②  不治の病であること

③  堪え難い苦痛を伴っていること

 

上述したAさんとBさんのケースは、これら3つの条件を全て満たしていました。

一方で、そうではないと思われる人が「安楽死」を求めるケースも少なくないようです。

 

 

例えば、ベルギーで2002年から法的に許されることになった精神病患者の安楽死。このケースは果たして ③「堪え難い痛み」に該当するのでしょうか?

ともかくも、ベルギーで30年以上にわたって躁鬱病に悩み苦しみ続けたCさん (50代男性) は「安楽死」を選択し、この世を去りました。

 

Cさんの担当医は次のように話しています。

「彼の人生は、刑務所で独房生活をしているようなものだったんです。何とかそこから解放されたい。つまり、彼にとって死は、自由と平和を手に入れる手段だったと思うのです。」

 

おそらく、Cさんにとっては「生き続けること」が「死」よりも堪え難い苦しみだったはずです。治る見込みもなく、苦しみばかりがこの先もずっと続いていくだなんて…

 

 

Cさんは医師の注射で安楽死を遂げる前、妻に落ち着いた口調でこう言いました。

「もしあの世があるのなら、君に居心地の良いスペースを取っておくよ。でも、急がなくていいから……」
 

 

 

 

ときには罪悪感を持つことも…

「安楽死」が容認されている国オランダやベルギーと異なり、スペインでは「安楽死」が容認されていません。

30年間寝たきりだった全身不随のDさん (50代男性) は、周囲の助けを得て安楽死に及びました。この一連の出来事は刑事事件に発展。毒薬を飲ませた恋人とその殺害を恨む家族…という敵対関係を生み、遺恨を残すこととなったのです。

 

この恋人は、「本当にその人を愛するのであれば、その人にとっての幸せを叶えたい」と語り、正当性を強調していました。一方の遺族家族は、「許せない!あれは犯罪だ!」と憤慨。。。

皆さんはこの話をどう思われますか?双方に頷ける部分があるとは思いませんか?結局のところ、人間の最期に「理想」なんてないんです。事実はときに残酷であり、ときに罪悪感を伴う場合だってあるのです。
 

 

 

 

「安楽死」には賛否両論あって当然

アメリカでは、(20年ほど前に) 末期癌で自殺幇助に臨んだこともある女性が、最終的には病気に打ち克ち、今は元気に暮らしている…という事例もあります。

この女性はある医師との出逢いをきっかけに放射線治療に励み、病気を根治させたのです。そして彼女はこう言っています。「Great to be alive!(生きていて良かった)!」と。

 

 

ある医師はこう話しています。

「人は、耐えられない痛みのせいで安楽死や自殺幇助を選ぶのではなく、周りに迷惑をかけたくないという理由から選ぶ傾向の方が強い。」

 

また、別の医師はこう述べています。

「私だって、すべての(自殺) 幇助が正しいとは思わない。時には、罪悪感を持つことだってある。」

もはや何が正解かわかりません。
 

 

 

 

「安楽死」が幸福を呼ぶ?

「個人」の生き方に重きを置く欧米と、組織第一の日本とでは、自ずと人生観は異なり、「安楽死の自由」についても見解は大きく異なるはずです。

日本では、実質的に安楽死が認められていません。だからこそ、日本で安楽死が取り沙汰される際には、それを決行した医師は刑事事件で処罰されます。

 

過去にも、例えば東海大学医学部付属病院(1991年)、国保京北病院(1996年)、川崎協同病院(1998年)などで「安楽死」絡みの事件が起きました。これらの事件では、医師がどこまで自発的に行ったかは長らくベールに包まれたままだったのです。

この問題は今でもある種タブーとされ、関係者の口は一様に堅いのです。

 

 

それでも、心から「安楽死」を願う末期がん患者さんは確かに日本にも存在していますし、彼らは (法律で規制されている) 日本から離れ、スイスに渡って安楽死を求めるのです。

中には、統合失調症やうつ病に苦しむ患者さんたちの姿も。

 

ある家族の方はこうおっしゃっています。

「私は、実際に彼女が安楽死できるだろうとわかった時、幸せを感じていたところもありました。なぜなら、(彼女は) 生きている限り、苦しみと不安が続くだけのようにも見えましたから。」
 

 

 

 

人間にとって、何が幸せな死に方なのか

「安楽死が幸福を呼ぶ」…という意見に対しては異論もあるでしょうが、きれいごとを抜きにすると、そういった一面も確かにあるのです。

「私といるとみんなが不幸になるの」と死にたい理由を語るある精神疾患を患っている日本人女性は、どうやら幼少期の両親からの虐待が、現在の彼女にストレス障害を与えているようでした。

 

ただ、彼女はまだ生きています。(海外で) 自殺幇助を受けてはいません。それでも、いざ死のうと思ったらいつでも「死ねる」んだ…という安心感からか、そのことが自殺の抑止力になっているようです。

「死ねる自由」を持つことは、「生きる希望」にもつながるということでしょう。これは、彼女に限らず世界全体で見られる傾向です。

 

 

こうした安楽死の別の側面を知ると、日本でももっともっと (諸外国が繰り返してきたような) 議論を行う必要があるのではと思わずにはいられません。
 

 

 

 

絶食を選んだ男

実は、「安楽死」や「尊厳死」が認められていない日本においては、特異な死を遂げる人たちもいるのです。

複数の臓器に転移した癌と闘っていたEさん (60代男性) は、安楽死が不可能な日本で、痛みを最大限に抑え、命を絶つために、「絶食」という道を選びました。

 

今の日本で、「尊厳のある死」を迎えるためには、もはやこうした方法しかないのでしょうか?

人間にとって、何が幸せな死に方なのでしょう?死に方こそが人間の生き方に直結します。己が幸せだと思える死に方で旅立つことが、生を全うした証ではないでしょうか?

 

しかし、それを成就させるためには忘れてはならないことがあります。それは、最愛の人の存在。

残された者に共感してもらえる死なのか。。。彼らの心に深い傷を残さないものなのか。。。ということ。

 

これを機に、一度家族で「安楽死」や「尊厳死」について語り合ってもらえたらなと思っています。

 

 


最終更新日:2017/12/14