「発達障害」「摂食障害」「不安障害」に打ち勝った小島慶子さんに学ぶこと

 

「空気が読めない」「口数が多い」「落ち着きがない」「何かに集中すると中断できない」「マイペースすぎる」「協調性がない」「思ったことをガンガン言ってしまう」・・・こんな自分は発達障害なのかなぁ?

「テレビに出ているあの人もきっとそうだよ。だって、同じ匂いがするんだもん。」

 

確かに、芸能人・著名人・アスリート・政治家・官僚・医師・学者・芸術家など、特別な才能を持った人たちの中には「発達障害」の方が多くいらっしゃいます。

 

母娘の確執

エッセイストでタレントの小島慶子さん (1972年生まれ) は長年、つらい障害と闘い続けてきました。父親が商社マン (海外駐在員) だったためオーストラリアのパースで生まれ育った彼女はその後シンガポール & 香港でも暮らし、小学3年の終わりに帰国。

「母親は、自分が子供の頃に得られなかったものをすべて私に注ぎ込んでくれました。」

 

しかしながら、「私は母親の分身で彼女の作品なんだ。」と感じるようになった小島さんは、母親に取り憑かれたような生活に嫌気がさし、2人の溝はどんどん深まっていくばかり。。。

「私がほしいものを与えても、あなたはなぜ喜ばないの」という母と、「私はあなたとは違う人間として認めてほしい」と訴える娘。こうした確執は、幼い頃からずっと続いていました。育てにくかった娘は、3歳から「反抗期」と言われ続けていたのです。

 

 

摂食障害との闘い

高校1年の時、お姉さんが結婚した小島さんは、「これからはもっと母の関心が私に集中するに違いない」と考え、重苦しい気持ちになりました。やがて太るのが怖くなり、摂取カロリーと体重を気にする拒食に。

ここから、長い摂食障害の人生が始まったのです。やがて、拒食の反動で高校3年の頃からは過食に。大学時代には、失恋から食べることを止めることができなくなってしまいます。

 

ここで小島さんは、「男性からも実家からも自立しなければ」「男性並みに稼げる仕事に就こう」と考えるようになったのです。女子アナウンサーを目指し、無理なダイエットを始めるのですが。。。

依然として「自己嫌悪」や「不安」を食べることでしか埋められず、体重を増やさないように「食べては吐く」ようになっていったのです (過食嘔吐)。

 

 

不安障害との闘い

念願のアナウンサーになって、一人暮らしを始めた小島さん。母親は娘の番組を観て、分厚い手紙・留守電・ファックスで連絡してきます (過干渉)。その後、仕事上のストレスもあって「過食嘔吐」は止まりません。

28歳の時にテレビ業界の会社員と結婚した小島さんは2年後に長男を出産。我が子を抱く母を見て、「触れらないで!」と嫌悪感を覚えたそうです。自分が親となったことで、これまで抑え込んでいた気持ち (母への怒り) が一気に噴出したのです。

 

母が連絡してくるたびに熱を出し、夫や幼子には八つ当たり。そんな自分が恐ろしくなった小島さんは、次に妊娠したタイミングでカウンセラーに相談することにします。

33歳で次男を出産した半年後。。。「怒り」で気持ちが不安定だったことに加え、「産後の体力低下」「睡眠不足」「子育て」「職場復帰への不安」が重なって、ついにパニック発作が起きます。病名は「不安障害」。主に、母との関係を中心とする成育環境が原因、と診断されました。

 

 

40過ぎてADHDと診断される

40歳を過ぎてから、不安障害の主治医に「軽度のADHD」 (注意欠如・多動性障害) と診断された小島さん。その瞬間の気持ちは、「もっと早く知りたかったよ〜!」だったそうです。

幼い頃から、「ひねくれ者」「育てにくい」「癇が強い」「わがまま」「小島家の失敗作」などと言われ続けたこともあって、ずっと自分を責め続けてきました。

 

でも、家族からそう思われてしまう「私」は、実は性格の問題ではなくて「脳の機能障害」の問題を抱えていたにすぎなかったのです。ともあれ、生まれつき「普通の子」とは違う特徴があるのだと判明したことで納得がいき、少しホッとしました。

「普通の子」ではない私。困惑する家族。だから、家族や学校は厳しいしつけで矯正できると思ったのでしょう。家族や先生も大変だったに違いありません。しかし、結果として「生きづらさ」に苦しめられ、「摂食障害」や「不安障害」といった二次障害にも苦しめられてしまいました。

 

 

「診断」から自分を客観視できるように

会話がうまくいかなかったのも、唐突な行動に出てひんしゅくをかってしまいがちだったのも、時間配分が苦手だったのも、全ては「脳みその特徴」だったのです。「なーんだ、そうと知っていればもっと自分の扱い方がわかったのに。」

診断されて、ようやく肩の荷が下りました。「何をしても悪目立ちしてしまう自分」「無様な振る舞いをしがちな自分」をすんなり受け入れることができたのです。いまだに失敗は絶えませんが、「こんなふうに生まれたのだから、せいぜいうまくやっていくしかないよね」と考えられるようになったのです。

以前は、頭蓋骨を開けて脳みそをつかんで放り投げたくなることもありました。脳みそが頭の中でずっと喋っているから、うるさくて仕方がない。「でも、そのおかげでできることもたくさんあるんだ。」今はそんな自分を客観視できるようになったのです。

 

 

おわりに

障害にもがき苦しみ、「自分は誰も幸せにできないんだ」「いなくなった方がいい」「死のう」とまで思った小島さん。どんどん壊れていく彼女の隣には、幸いにして優しく支えてくれる旦那さんがいました。

こうして、症状は少しずつ落ち着きを見せていくのですが、不安障害発症の原因である家族とは数年間会わないことを決意。「母は変えられないが、自分は変えられる。」

 

実家への病気の説明は、夫がしてくれました。そして両親も、娘の病を理解しようと頑張ってくれたのです。

今はもう、母への怒りはありません。振り返ってみると、母も家族も友人もみな普通の人。私に期待し、私を精いっぱい愛し、ともに幸せになろうとしていただけだったのです。