アルベルト・シュバイツァー ⑤ アフリカのランバレーネで永眠
シュバイツァー博士のたゆまない努力と深い愛情は、次第に黒人たちの間に感謝の心を呼び起こし、病院の仕事も順調に運ぶようになってきました。
でも、用意してきたお金が尽きてきたので、一度ヨーロッパに戻って資金を集めてこようと考えていたちょうどその頃…
第一次世界大戦が起こってしまったのです。戦争が始まると、ドイツ人のシュバイツァー夫妻は、もともとこの土地がフランス領だったため、捕虜にされてしまったのです。
原住民たちはこれに憤りを感じ、「白人たちは嘘つきだ!人食い人種だってこんなことはしやしない!」と騒ぎ立てます。シュバイツァー自身も疑問を抱きます。
「確かに、黒人たちは無知でひどい暮らしをし、魔法や迷信を信じている。しかし、白人の誇っている文明は、どれだけ立派なものだろう?」
「相手が弱い国だと見ると戦争を仕掛け、その国を自分のものにしてしまう。アフリカなんかはみんな植民地にされてしまった。貧富の差もある。どうも我々の文明は間違った道に踏み込んでいるようだ。」
シュバイツァー博士は捕虜として家に閉じ込められている間も、許されて診察を再開してからも、ず〜っとこの問題を考え続けていました。
植民地の略奪…
資本家の横暴…
大戦争…
この世に、生命ほど尊いものはないんだ!
博士は「生命への慎み」の考えを基にして、今までの文明のどこが間違っているのか、これからの人間はどのように生きなければならないかを「文化哲学」という本に書き始めました。
この本を書きかけたところで夫妻は捕虜としてヨーロッパへ送り返され、収容所に入れられてしまいます。
その後も、フランスとドイツの捕虜交換で出てくるまで、多くの苦しい経験がありました。
1818年、戦争はようやく終わり、シュバイツァー夫妻は故郷のアルザスに帰ることができました。
でも、アルザスは今はフランス領になり、美しかった自然は荒れ果て、あちらこちらで焼け落ちた家が煙を上げていました。しかも、愛しのお母さんは戦争で軍馬に踏み殺されていたのです。
戦争が済んで2年の間、シュバイツァーはアフリカの病院のことが気になりながらもどうにもなりませんでした。彼自身、医者と副牧師の仕事でやっと生きているだけだったのです。
アフリカ行きのために友達から借りていたお金さえ、返すあてがありません。みんな、生きていくだけで精一杯だったのです。
しかし、優れた人間の仕事というものはいつかは人に知られます。
1920年、スウェーデンからシュバイツァーのもとに「講演に来てくださいませんか?」と依頼がきます。これを機に、講演や演奏会の依頼が相次ぎ、あらかたの借金は返せました。
その上、スウェーデンの出版社から執筆の依頼が舞い込んできたのです。こうして出来たのが「水と原始林のあいだで」です。
この本は世界各国で翻訳され、シュバイツァーのやってきたこと、これからやろうとしていることは世界中に広く知れ渡っていったのです。
「全財産をシュバイツァーに!」と遺言を遺す人までいました。その後は「文化哲学」を出版し、いよいよ病院の立て直しに目処が立つと
1924年、再びアフリカに渡るのです。寄付金も集まり、日本でも、内村鑑三さんが博士のことを雑誌に書きお金を送りました。
戦争で黒人の生活は荒んでいて、全ては最初からやり直し…いや、前よりひどい状況でした。
飢饉…
赤痢の大流行…
強い意志をもった博士でさえ、「もうダメだ…」とやめる覚悟を決めたほどでした。
しかし、やめてしまっては…
博士は大決心を持って、病院をもっと広い土地に移すことにしました。周りにバナナや野菜を作れば、飢饉も伝染病も恐るるに足らず。
・・・
「ドクトル、これはいい病室です。まるで御殿です。」
病人たちは喜びました。
それを聞いたとき、博士は全ての苦労が報われたのです。若く元気な医師や看護師も、次々にヨーロッパから応援に来てくれました。
それでも、博士に休みはありません。薬の買い入れ、音楽会、講演、執筆、、、
それに加えて、世界中から悩みを持っている人が訪ねてきます。手紙も寄せられます。それらの人に会って慰めたり、励ましの返事を書くだけでも大変なことでした。
第二次世界大戦の間は、博士はずっとアフリカで病院を守って過ごしました。この地方でも戦いは行われ、最後は薬品もすっかり切れてしまい、病院はまたもや危機に陥りましたが、何とか切り抜けられました。
戦後、1952年になると、あまりにも遅すぎるノーベル平和賞が博士に贈られます。
その後も、高齢であるにも関わらず、なおも盛んに活動を続けます。ハンセン病者の村を完成させたり、ラジオや新聞を通じて原爆禁止を訴えたり。。。
1960年、博士のいるランバレーネのあるフランス領熱帯アフリカはガボン共和国として独立。
アフリカの現状やシュバイツァーの精神を知らない人は「ランバレーネの病院は世界一有名だが世界一汚い病院だ」と非難します。
しかし、ここは文明を遠く離れたアフリカの奥地であり、病院は全て博士個人の負担でやっていたのです。
ある晩博士はこんな風に語ったと言われています。
「私はランバレーネで『文化哲学』を書き続けられればそれで幸せだ。その後で、奥地の食人種の友達がやって来て、私を食べて、俺たちは食った。ドクトル・アルベルト・シュバイツァーを。と言って墓でも作ってくれたらそれこそ満足な死に方というものだ」と。
博士は、乱暴な人たちに殺されても構わないほどの献身的な気持ちでいたようです。そんな気持ちで最後まで働いていたのです。
博士は難しい本ばかりでなく、子供が読んでも楽しい本をいくつも書いています。
博士は動物が大好きで、病院をまるで動物園のようにしていました。特にお気に入りだったのは一羽の大きなペリカンで、このペリカンについても本を書いています。
1965年、ベートーベンの第九シンフォニーを喜んで聴いた数日後、博士は静かに息を引き取りました。
博士の亡骸は、病院の敷地内にある夫人のお墓の隣に、愛するアフリカの地に埋葬されたのです。
・生誕:1875年1月14日
・死没:1965年9月4日 (享年90)
・市民権:ドイツ (1875〜1919) フランス (1919〜1965)
・ノーベル平和賞:ランバレーネにおける外科医としての診療活動に対して
・大好物:風月堂のゴーフル