重複障害の偉人ヘレンケラー③ 「不自由な人たちよ、幸せになれ!」
1歳9ヶ月の時に、胃と脳髄の急性充血による高熱で視覚と聴覚を失い、言葉が不自由になってしまったヘレン・ケラー。
しかし、そんなヘレンを、両親はじめ周囲の人たちは懸命にサポートし、立派な大人になれるよう勉強させます。
パーキンス盲学校で3年間暮らした後、1890年、10歳の時には発声法を学び、その後ニューヨークの口話学校で2年間学び、大都会のスラム生活者の苦しみを初めて知り、社会問題に関心を持つようになっていったのです。
そんな充実した生活を与えてくれた愛する父アーサーが、ヘレン16歳の時に亡くなってしまいます。
「重複障害の偉人ヘレンケラー」第3回目の今回は、父の死を乗り越え、その後も懸命に学び、世界中の障害者たちのために精一杯活動していったヘレン・ケラーの生涯をまとめています。
是非、最後までお読みください。
この悲しみを乗り越え、一生懸命に勉強したヘレンは、念願のハーバード大学に入学。大学に学びながら、新聞や雑誌に原稿を書くようにもなりました。
講演の依頼も入ってきます。そこでは、三重苦 (見えない、聞こえない、話せない) の女性が講演するとあって、物好きな人たちでいっぱいになります。
どうせ、変な顔をした奇妙な女の子だろうくらいに思っていた人たちは、ステージに現れた天使のようなヘレンの姿を見て呆然とします。
「信じられない!聾唖(ろうあ)者が話すなんて!」
そんなヒソヒソ話の間で、ハンカチで涙を拭いている人の姿もありました。講演が終わると、しばらくの間拍手が鳴り止みません。
その後ヘレンはめでたくハーバード大学を卒業。
「ねぇ、サリバン先生。私は世界中の目の見えない人、耳の聞こえない人、ものを言えない人たちを、少しでも幸せにするために生まれてきたのではないでしょうか。」
大学卒業後のヘレンは、” 盲人のために尽くすことが終生の使命” であると確信し、全身全霊をこの目的に捧げていくこととなるのです。
その言葉を実践し、原稿料や講演料、寄付金など全てのお金を社会事業に寄付するヘレン。自身はけっして裕福な生活は送りません。社会事業に寄付するため、もっと稼がないと。
ヘレンはハリウッド映画にも出ました。見せ物になるのを覚悟の上で、大金を貰えるサーカスにも出ました。
このことにより、ヘレンを見る世間の目は冷たくなっていきます。
「世間が何と言おうと、母さんはあなたの勇気と信念を信じていますよ。」
遠く離れた地から手紙で支え続けてくれていたお母さんも亡くなってしまいました。
お母さんの苦労が今だからこそわかるヘレン。せめて母の老後を、そばにいて、もっと幸せなものにしてあげたかったのに…
ヘレンの頬には限りない涙が伝わってきます。
・・・
ヘレンは世界中で講演の旅を続けます。記憶の中に様々なものが浮かび上がります。
・美しいパリ…
・ルクセンブルクで「盲目」と名付けられた彫刻の前に立ったときのこと…
・ノートルダム寺院で無名戦士の墓にお参りしたこと…
・満月の夜、ベネチアのゴンドラに乗ったこと…
・ベズビオ火山が煙を吹く風景…
・インドのガンジス川のほとりで、何だか気味の悪い歌の調べを聞いたこと…
そんなある日のこと、ヘレンのもとに一通の手紙が届きます。日本からです。
1937年、ヘレンは57歳のときに憧れの日本にやって来ます。その頃の日本は、まだ目・耳・口の不自由な人たちを教育したりすることはなく…
職業を身につけさせるための訓練所さえできていませんでした。
そこへヘレンが訪れ、各地で講演をして歩くと、集まった人々はこれまで考えもしなかった、不自由な人たちの問題を真剣に話し合うようになりました。
ヘレンの来日を誰よりも喜んだのは、日本の、身体の不自由な人たちでした。ヘレンに会い、話を聞いた人々は、初めて生きていく力が湧いてきたのです。
講演の旅で日本中の美しい季節を感じとったヘレンはこう思います。
「ああ、サリバン先生も一緒だったらどんなに楽しかったことでしょう。」
サリバン先生は、ヘレンと一緒に日本に来るのを楽しみにしていたのですが、その一年前、病気のためスコットランドで亡くなってしまったのです。そんな悲しみを胸に秘めた日本への旅だったのです。
しかし、
盧溝橋事件が起き、日本は中国大陸を攻め始めます。ヘレンは中国行きを諦め、アメリカへ帰ることにしました。それからの日本は、間違った、不幸な道を辿ることになるのです。
戦後、ヘレン68歳のとき、再び日本へやって来ます。変わり果てた日本の姿に、ヘレンは胸が痛みました。
ヘレンの話を聞いた人たちは、「自分を不幸だと嘆いているだけではいけない。」と生きる勇気をもらいます。日本の町は変わり果てましたが、ヘレンと接する日本人は前と変わらず親切でした。
こんなに心優しい人たちが、なぜあんな恐ろしい戦争をしたのだろうとヘレンは不思議でなりません。でも現に、日本とアメリカは敵味方に分かれて戦ったのです。どんなに悲しいことでしょう。
それは、戦争に勝った国も負けた国も、不幸になるのに変わりはないのです。第二次世界大戦では、ヨーロッパやアジアで、何千万人というあまりにも多くの人たちが戦死したり、手足を失ったり、失明したりしたのです。
「みんな、生きる望みをなくしている」
ヘレンには、その人たちの暗い気持ちが痛いほどわかるのです。
「目を失い、耳が不自由になった人に、生きる喜びを与えるということはみんながしなければならない義務です。幸せな人は、どうぞその幸せな光を掲げて、不自由な人たちも幸せになれるようにしてください。それが、健康な人間の使命であり、責任でもあるということを知ってください!」
こうして、「青い鳥運動」が始まりました。ヘレン・ケラー協会も誕生しました。このときヘレンは2ヶ月日本に滞在していましたが、1955年、74歳のヘレンは三たび日本に訪れます。
ヘレンは始終、広島を想っていました。世界で初めて原子爆弾という、恐ろしい爆弾を落とされた広島。何十万という人々を死に追いやり、2度と健康な身体に戻れない。。。
ヘレンは、世界中を回り、反戦を訴え続けます。
そして、「盲人に光を…」
1968年6月1日、一生を、世界の身体の不自由な人たちを幸せにするために捧げ尽くしたヘレンは、その立派な生涯を、アメリカ・コネチカット州の自宅で閉じました。87歳でした。
アインシュタインはサリバン先生にこんな言葉をかけたことがあるそうです。
「あなたの仕事は近代教育の他のいかなる業績よりも興味深いです。あなたはケラーに言葉を伝授したばかりでなく、彼女の個性を開花させました。」
よく誤解されていますが、
「奇跡の人」とはサリバン先生のことなのです。
サリバン先生は教育者として傑出した能力を持っていました。ヘレンと共に、サリバン先生のこともしっかりと覚えておいていただければと思います。