元横綱・貴乃花が残した大相撲界への功績

 

平成以降、元横綱の「相撲協会離れ」が目立つようになってきています。朝青龍や日馬富士に関しては「暴行事件」があったため半ば強制的に引退に追い込まれていますが、それ以外の「曙」「若乃花」など多くの功労者たちも自ら?退職の道を選択しているのです。なぜなのでしょう?

そして2018年秋、平成の大横綱・貴乃花もついに協会離れを決意。同年、「5階級降格」という屈辱を味わいながらも「大相撲のため」「かわいい弟子たちのため」に頑張ってきた貴乃花。なぜ、子供たちの見本ともなるべきスポーツ界には恥ずべきイジメが存在しているのでしょうか?

 

相撲大好きだった少年

第65代横綱・貴乃花光司さん (1972年8月12日生まれ、東京都杉並区出身) は父が元大関・貴ノ花、伯父が元横綱・初代若ノ花ということで、相撲の名門一家に生まれ育っています。

そんな彼は小学生の頃から相撲が大好きで、わんぱく相撲でも当然「横綱」に。小学校を卒業すると、兄(元横綱・3代目若ノ花)の後を追って明大中野中学校に進み、相撲部に入部。

 

そして中学を卒業すると父親が親方を務める藤島部屋に入門。父親が果たすことのできなかった「横綱」を目指し、精進する日々が始まっていったのです。

ちなみに、入門した年の1988年3月場所が初土俵でした。このときの四股名は貴花田 (本名の花田に父親の貴ノ花から一字もらって)。この年の新人には有望株 (ライバル) が多く、兄の若ノ花をはじめ、曙、魁皇など、後に相撲界を支える大物たちがずらりとひしめき合っていました。

 

 

 

ライバル曙との名勝負

中学を出てすぐに初土俵を踏んだ貴花田は、当初それほど強くはありませんでした。事実、兄の若花田よりも2場所遅れで幕下にたどり着いたくらいですから。しかし、その後の快進撃がすごかったのです。

幕下に昇進した1989年5月場所での最年少幕下優勝(それまでの記録は横綱・柏戸)を皮切りに、1989年11月場所で十両昇進(横綱・北の湖)、1990年5月場所で幕内昇進(横綱・北の湖)と次々に記録を塗り替えていきます。

 

そして1992年には最年少幕内初優勝を果たします。その後も「年間最多勝」「大関昇進」「全勝優勝」と最年少記録を更新。ただし、北の湖が持つ「最年少横綱昇進記録」だけは抜くことができませんでした。

ちなみに、横綱・貴乃花の主だった力士との対戦成績を見てみると、横綱・武蔵丸には29勝19敗、大関・魁皇には27勝12敗と大きく勝ち越しているのですが・・・横綱・曙とは21勝21敗、優勝決定戦で4勝4敗とまったくの互角でした。

 

 

 

千代の富士を引退に追い込んだ貴花田

1991年、小さな横綱・千代の富士 (当時35歳) は夏場所3日目の貴闘力戦に破れ引退しました。初日の貴花田戦に続き2敗目となり、21年に及ぶ土俵人生に別れを告げたのです (もちろん、指導者としての道はその後も続きますが)。

奇しくも、千代の富士が引退表明した5月14日は20年前に大鵬が引退した日でもあったのです。

 

 

「体力の限界…」と千代の富士に引退を決意させたのは初日の貴花田戦でした。その成長を胸に受けとめ、あと1回に迫った大鵬の優勝回数32回に未練なく引退していったのです。17歳も年の離れた貴花田の台頭は、きっと千代の富士を安堵させたことでしょう。

「体力的にはボロボロ。それでも頑張り続けたのは次の世代が育つのを見届けるため。」

 

 

 

怪我による引退

2001年1月場所の後、ライバルの曙が引退します。その後、5月場所は貴乃花にとって運命の場所となってしまいました。全勝で迎えた14日目、大関・武双山に敗れ右足を負傷してしまったのです。

無理して出場した千秋楽は横綱・武蔵丸に敗れ、優勝決定戦までもつれることに。負傷した足が痛々しく、誰の目にも「無理だ」と思われた決定戦。貴ノ花は渾身の上手投げで勝利し、総理大臣杯授与の際、小泉首相から「よく頑張った。感動した。」と声を掛けられたのです。

 

しかし、この時の怪我が完治せず、結局2003年1月場所で引退。 引退後は一代年寄貴乃花を認められ、父親の二子山部屋を継承し、相撲協会幹部として活躍していたのですが、、、

一代年寄は、著しい功績を残した横綱にのみ与えられる、現役時代の四股名を名乗り続けられる権利のこと。30歳で引退した貴ノ花は大鵬・北の湖に次ぐ3人目の一代年寄となったのです。

 

 

 

第2の大鵬

「5階級降格」という憂き目に遭った「平成の大横綱」 貴ノ花の姿に、「理事長になれなかった昭和の大横綱」大鵬を重ね合わせる人も少なくありません。

2017年11月に発覚した元横綱・日馬富士による暴行事件を機に、貴ノ花の協会内での立場は大きく変わりました。親方衆のトップ10にあたる「理事」から、最も低い階級の「年寄」にまで降格させられたのです (被害を受けた側の親方がなぜ?)。

 

 

さらには、盛況が続く春巡業からも排除されました。2018年3月、協会は、「暴行を受けた力士らのケア」を理由に巡業に帯同させなかったのです。新たに巡業部長になった春日野親方(元関脇・栃乃和歌)が、現役時代の実績も人気も圧倒的に上の貴乃花親方と同じ場に出ることを嫌がったということでしょう。

協会内にはびこる「おかしな力」「パワハラ」「村八分」「イジメ」・・・こうした動きを見て、古くから相撲に関わる人たちの中には、「このままでは貴乃花が“第2の大鵬”になってしまう…」と呟いていたそうです。

 

 

 

理事長になれなかった大鵬

初の一代年寄となった第48代横綱・大鵬は人気も実力もある大横綱でした。引退後は親方として「角界の顔」になるとみられていたのですが、そんな大鵬が理事長の椅子に座ることはありませんでした。

表向きは、「審判副部長だった36歳の時に脳梗塞を発症して左半身に軽いマヒが残り、本場所の土俵で優勝賜杯を渡す理事長職は難しいから」と言われていますが、実は協会内での勢力争いに敗れていたのです。

大横綱・大鵬は、奇しくも「悪しき風習」に敗れ去っていたのです。千代の富士然り、貴ノ花然り…

 

 

 

おわりに

2010年の理事選で、当時37歳だった貴ノ花親方は二所ノ関一門内の事前調整に従わず、立候補を強行します。この時、背中を押したのが大鵬さんでした。「自らの無念を晴らしてほしい」という気持ちがあったのでしょう。

しかし、漆黒の闇に包まれている協会のチカラはとてもとても1人の力では抗いづらく、次から次へと厳しい試練を受けることとなっていくのです。

 

高砂一門の八角理事長(元横綱・北勝海)は「つなぎの理事長」です。ゆくゆくは、出羽海一門の藤島親方(元大関・武双山)に理事長職を譲るのが既定路線となっているとか。そんな汚い世界で、「5階級降格」させられた暴力被害者力士の師匠・貴ノ花は更なるイジメに遭い、「退職」を決意せざるを得なくなってしまったのです。

昭和の大横綱は「一門制度」という旧弊の改革を平成の大横綱に託したわけなのですが、その道は今、閉ざされようとしています。

 

若貴フィーバーを巻き起こし、空前の大相撲ブームを作り上げた貴ノ花。 家族バラバラで夫婦仲も危機と囁かれていますが、今後彼の人生はどうなっていくのでしょうか?

なんとか幸せな人生を歩んでいってもらいたいものです。