ZARD坂井泉水さんの恋愛体験とウエディングドレスへの憧れ

 

ZARDのボーカルだった坂井泉水さんは小中時代を神奈川県で暮らし、高校も県内の高校に進学しました (1982年のことです)。

そして、高校時代の親友は坂井さんのことをこう語っています。

 

「控えめな性格だったんだけど天然ボケでマイペースな子でした。本名の蒲池幸子から『サッチ』と呼ばれていて。。。歌手の大沢誉志幸さんの曲『そして僕は途方に暮れる』が大好きで、よくノートに歌詞を書いていたんですよ。」

「授業中にも書いていたんですが、先生が近くに来たのにまったく気づかず、(先生に) 教科書で頭をポカンと叩かれていました。」

 

スポーツ万能だった『サッチ』は高校時代、硬式テニス部に所属。校内のミスコンでは優勝し、他校の男子生徒たちが覗きに来るほど彼女の評判は広まっていたといいます。控えめながらも当時から華があったんですねー。

 

 

 

 

思春期の甘酸っぱい思い出 ♡

 
高校1年生のとき、純な『サッチ』は俳優の伊藤英明さん似の先輩を好きになってしまい告白するのですが、残念ながらフラれてしまい相当なショックを受けていたそうです。

この時、『サッチをフるなんて信じられないっ!』と、女子生徒たちからはブーイングの嵐。

 

そんな思春期の甘酸っぱい思い出はさておき、3年生になった『サッチ』はバンド活動に強い関心を示し、「テニス部は夏で引退するしバンドを組みたいな」と話していたそうです。

そして、バンドを組んでいる同級生に『参加したい』と熱心に頼んで回るのですが、残念ながらどのバンドにも空きがなく、結局は実現しませんでした。

 

 

 

 

ZARDで成功するまでの道のり

 

 
坂井さんは高校を卒業すると神奈川県内の短大に進学。その後、OL生活を経て芸能界入りするも、(歌手ではない) キャンペーンガールでした。1989年には「東映カラオケクイーン」、1990年にはレースクイーンとして活動するのですが、音楽への情熱はますます高まっていくばかりだったのです。

レースクイーン時代の仕事仲間だったタレントの岡本夏生さんは、坂井さんとよく仕事帰りにカラオケに行っていたそうです。

 

「彼女は高橋真梨子さんの『for you…』を歌詞も見ずに気持ちを込めて歌っていました。普段は10話しかけても2しか返さないぐらいおとなしい子でしたが、歌うときの自信に満ち溢れた姿には、歌手を目指す強い信念を感じましたね。」

「詩を書き溜めたノートをいつも持ち歩いて、仕事の合間にもよく詩を書いていました。」

 

そして、岡本さんは坂井さんから「好きでもない男性に言い寄られて困っている。恨まれないようにうまくかわしたいんだけどどうしたらいい?」と相談されたこともあったようです。

恋愛はさほど器用ではなかったようですね。

 

そんな坂井さんは1991年、ZARDのボーカルとしてシングル曲「Good-bye My Loneliness」で念願の歌手デビューを果たします。彼女の (歌の) 才能に目を付けたのは、「TUBE」や「B’z」などを手掛けた音楽プロデューサー、長戸大幸さん。

以後、坂井さんは、長戸さんの音楽事務所「ビーイング」に所属することになるのです。

 

 

 

 

坂井泉水がウエディングドレスを着たがった理由は…

 

 

デビュー当時の坂井さんは芸能人であることを隠そうとして「だてメガネ」をかけていましたが、レンズが入っていないため逆に目立っていました (笑)。それからまもなくして、1993年には「負けないで」が大ヒット。

当時の坂井さんの印象を、皆さん口を揃えてこうおっしゃっています。「写真で見たイメージ通りの美人!」「女性アーティストの中には人気が出てくるとおごりが見える人もいますが、彼女にはそんなところが一切なかった。」「一つひとつの質問をきちんと受けとめて、言葉を選んで話す。そんな、文学少女のような女性でした。」

 

 

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「ドレス、着てみたいなぁ」

 

2006年 (亡くなる前の年)、坂井泉水さんのリクエストでウエディングドレスが用意されます。ZARD42枚目のシングル曲「ハートに火をつけて」はタイアップ・ドラマに合わせたウエディングソングだったこともあり、ドレスは真っ白なウエディングドレスが準備され、撮影は結婚式場で行われたのです。

場所は恵比寿のロビンズクラブ。チャペルを併設したレストランですが(残念ながら現在はウエディングを取り扱っていません)。

 

そもそも、坂井さんからスタッフにリクエストがあるのはとても珍しいことでした。なので、みんな張り切って頑張り、朝の7時から夜の11時近くまでたっぷりと撮影したのです。

ただ、スタッフは知りませんでしたが、この頃すでに坂井さんは体調を崩しており、長時間の撮影はかなり堪えたはずです。それでも、みんなの期待に応えようと、頑張って元気に振舞っていたのです。彼女は自分の弱いところを見せない女性でした。

 

 

 

 

「水族館で撮影をしたい」

 

 

撮影の合間の坂井さんは、キャストとして参加していた子どもたちとよく戯れていました。子ども用カードゲームのムシキングの話で盛り上がったり。。。

その後すぐ、坂井さんは子宮頸がんで入院します。

 

 

「水族館で撮影をしたい」

坂井さんのリクエストがスタッフに伝えられ、「しながわ水族館でいよいよ撮影だ!」という雰囲気の中、直前になって中止になりました。坂井さんの体調がよくなかったのです。

 

その後、、、

2007年5月26日、坂井さんは病院のスロープから落下して脳挫傷となり、翌27日にこの世を去ったのです。

 

 

 

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ある日の撮影現場。ウエイトレスさんが緊張してコーヒーをこぼし、坂井さんの白い衣装がコーヒー色に染まってしまいました。

 

スタッフは大慌て。

「今日の撮影は中止かなぁ…」

 

スタッフの多くがそう思っていた時、坂井さんは何事もなかったかのように振る舞い、

「大丈夫です。すぐに着替えてくるから続けましょう」とウエイトレスさんを気遣い、そのまま撮影を続行したのです。

 

 

1990年代は撮影が活発でした。

 

 

2000年代に入ると、坂井さんの体調のこともあり、撮影の機会は少なくなっていきました。そして40歳という若さで天に召された『サッチ』。

生前、プライベートのほとんどはベールに包まれていましたが、デビュー前から大黒摩季さんとは公私ともに仲がよかったようで、分刻みの多忙なスケジュールの中、「ねえ、摩季ちゃん。行きたいお店があるんだけど…」と悪い目をして誘い、一緒に行くと、最終的にプロデューサーに叱られるのは大黒摩季さんの方だったとか (笑)。

 

 

ZARDの曲は坂井さんが歌詞を書き、坂井さんが歌っています。坂井さんのこと、あなた自身の思い出などを振り返りながら、たまにはZARDのPV (プロモーションビデオ) を観てもらえたら嬉しいなと思います。

 

 

 

 


最終更新日:2021/05/30