40歳で急逝したZARDのボーカル・坂井泉水さんの死因と戒名・弔問者数
2007年5月26日、人気ロックバンドZARDのボーカルだった坂井泉水さんはがんの治療で入院していた東京信濃町にある慶應義塾大学病院のスロープから転落。脳挫傷で昏睡(こんすい)状態となりました。
その死の直前の病室を訪れたある人はこのように話しています。
「まだ手はあたたかかったんですけど、すでに意識がなくて…」
「坂井さんとの数々の思い出が蘇って、人間ってこんなにもたくさんの涙が出るんだと思うほど、ぬぐってもぬぐっても涙が溢れてきました。」
☆★ 坂井泉水 ☆★ プロフィール
◉ 本名:蒲池幸子 (かまち さちこ)
◉ 誕生日:1967年2月6日
◉ 出身地:神奈川県平塚市
◉ 死没:2007年5月27日
◉ 血液型:A型
◉ 家族構成:両親、弟妹の5人家族
20代前半まではモデルやレースクイーン (岡本夏生は同期) として活動していましたが、歌手になるという強い希望を持ち続け、1991年、ZARDのボーカルとして歌手デビューを果たします。
6thシングル「負けないで」の大ヒット以降はメディア露出を封印。ミステリアスな存在感が魅力の一つでもあったのです。生涯を通し、数回のテレビ・ラジオ出演以外はほとんどメディアに登場せず、ライヴ活動もほとんど行いませんでした。
闘病生活と死因について
2000年以降、子宮筋腫、卵巣のう腫、子宮内膜症と次々に病気を患い、通院の日々が続きます。2000年は、NHK紅白歌合戦へん出場にも前向きだった坂井さんでしたが、体調不良のため辞退。
2006年春、仕事中に体調が悪化したため病院で検査を受けたところ、子宮頸がんが発見されます。6月には慶應義塾大学病院で病巣の摘出手術を受けて7月に退院。
「これで大丈夫」と思ったのもつかの間、翌2007年4月、肺への転移が見つかり再入院することになります。入院中は抗がん剤による治療を受け、治療後のアルバム作りとコンサートツアーに向けて再始動の準備をしていたのです。
しかしながら…
2007年5月26日午前5時40分頃、病院内のスロープから3m下に転落し、駐車場で仰向けに倒れているところを通行人に発見されるのです。
そして、集中治療室で緊急処置を受けるも翌5月27日午後3時10分、後頭部強打による脳挫傷のため急逝 (享年40)。
(抗がん剤治療の副作用でフラッとなってしまったのでしょうか)
葬儀・告別式は近親者のみによる密葬で、東京都町田市にある斎場で営まれました。戒名は、当初は「澄響幸輝信女(ちょうきょうこうきしんにょ)」でしたが、後に「麗唱院澄響幸輝大姉」(れいしょういんちょうきょうこうきだいし)に位上げされているようです。
亡くなる2日前…
Aさんが坂井さんと最後に言葉を交わしたのは亡くなる3週間ほど前のことでした。ガンが肺に転移したことがわかり、抗がん剤治療を行っていた頃だったそうです。
「最後に言葉を交わしたのは電話だったんです。本人は治療がすごく怖いって言っていました。」
「私自身、ガンという病気を患っていたことがあり、怖いという気持ちはよくわかるんです。治療をしていく中で、不安や恐怖に襲われることはどうしてもあって、その時は何も言葉をかけることができませんでした。」
亡くなる2日前、坂井さんと電話で話したBさんは、「電話では、退院後のレコーディングを本当に楽しみにしている様子でしたよ」と話しています。だからこそ、坂井さんとの別れが来ることなどとても考えられなかったそうです。
その後、坂井さん逝去の連絡を受けたことや葬儀のことなど、その時期のことはBさんの記憶からすっぽりと失われています。
交友関係
坂井泉水さんの死去は韓国や台湾などでも一斉に報じられました。東京と大阪に設けられた献花台には多くのファンが訪れ、2006年秋に発売されていたベストアルバム「Golden Best 〜 15th Anniversary」はオリコン史上初の圏外から2位に急上昇!
2007年6月には、東京・青山葬儀所で「ZARD / 坂井泉水さんを偲ぶ会」が関係者向けの音楽葬として催され、大黒摩季、織田哲郎、森友嵐士、TUBE、B’z、倉木麻衣、長嶋茂雄などが列席あるいは追悼のコメントを寄せています。
その翌日に催された一般者向けの音楽葬ではあまりにも多くの人たちが訪れ、現場は大変なことになっていたようです。余談ではありますが、この弔問者数は4万100人。
hideの約5万人、忌野清志郎の約4万3000人、美空ひばりの約4万2000人に続き、4番目の人数だったということです。ちなみに、吉田茂で4万人、尾崎豊で3万7000人とされています。