ナポレオンの転落人生 〜 ロシア遠征の大失敗はいったいなぜ?
「余の辞書に不可能という文字はない」
これは、瀕死のフランスを救った英雄であり独裁者でもあった皇帝ナポレオン・ボナパルトの言葉としてあまりにも有名です。ナポレオンは、革命後の差し迫った社会情勢もあって、国民から絶大な支持を受けていたのです。
民衆は、疲れきったフランスを蘇らせてくれる英雄としてナポレオンに夢を託したのです。その結果、1804年、ナポレオンはついに皇帝の地位まで上り詰めます。若干24歳の青二才下士官だったナポレオンは、たったの10年で皇帝になってしまったのです。
こうなるにはいくつかの偶然と奇跡が必要でしたが、織田信長やヒトラーなどの例でもわかるように、あるいくつかの要素が合致すれば、この種の現象が稀に起こってしまうのです。
しかし、地位を確立したナポレオンにとってその後の人生は波乱万丈そのものでした。当時、「戦犯」を問う国際法が確立されていなかったために、死刑ではなく2度の「島流し」という憂き目に遭いますが、このことは一度は英雄と言われた男にとって不幸だったに違いありません。
そこでここでは、転落人生の引き金ともなった「ロシア遠征」についてまとめてみました。
是非あなたに「ナポレオン」を “疑似体験” してもらいたいと思います。彼の苦悩を少し感じてみてください。そうすることで、現在のあなた自身の悩みが少しでも軽くなり、勇気と希望が蘇ってくることを心から願っております。
ヨーロッパの大部分を力でねじ伏せ巨大な帝国を築き上げていたナポレオンに楯突く国は存在しませんでした。しかし、ヨーロッパ各地にフランス軍が点在してしまった結果、維持費だけでもバカにならず、台所事情は火の車…
特にスペインではゲリラ活動に悩まされ、30万人近いフランス軍が釘付けにされていたのです。
そんな中、海の向こうのイギリスとロシアはナポレオンに敵対し続けています。
「余の命令に背くとは小癪なロシアめ!思い知らせてやる!大軍で叩きのめしてやるっ!」
こうして1812年6月、ドイツ・イタリア・ポーランドなどからかき集められた兵力80万の地上最強軍団を引き連れ、ナポレオンは怒涛のごとくロシアになだれ込んで行ったのです。
フランス軍と同盟国の軍隊はロシアの大平原に進撃!
しかし、これに対峙するロシアも帝国の隅々から農民などをかき集め、100万近い大軍となってナポレオンを待ち受けるのです。
進めど進めど同じような景色が永遠に続くかのような広大な大自然。おまけにロシア軍は持久戦に持ち込み、寒さと飢えでヨーロッパの兵士が自滅することを待ち望んでいました。これはナポレオンにとって今までに経験したことのない戦いでした。
食料もなく…
燃料もなく…
まともな戦闘もしないうちに強行軍に疲労困ぱいし、飢え、逃亡する兵士たち…
やがて悪魔の雄叫びのような風の切り裂く音とともに、恐ろしいロシアの冬将軍が到来します。気候は急激に悪化し、猛烈な吹雪が容赦なく襲いかかります。
栄養失調…
飢餓…
疾病…
凍死…
死傷者があとを絶ちません。
「撤退するしかないのか…」
食料が底をつき、軍馬を殺しその肉を食料とします。軍馬は20万頭以上殺されたといいます。そんな状態で退却するナポレオン軍に、ここぞとばかりロシア軍が襲いかかります。大自然の魔の手がこれに追い打ちをかけます。
一日の大半を暗い夜が占め、あらゆるものが凍りつく恐ろしいロシアの冬が本格的に襲いかかってきたのです。
こうして80万を超え、最強と謳われたナポレオン皇帝の大陸軍は壊滅してしまったのです。ライン川を越え、命からがら故国フランスまで逃げ帰ることができた者は果たしてどれくらいいたでしょうか?史実では、5,000人にも満たなかったとも言われています。
このロシア遠征での大失敗で、もともとナポレオンに反感を持っていた国々は揃って反旗をひるがえします。その結果、傷つき疲弊したナポレオンは失脚し、エルペ島へと追放されるのです。
1年後、島を抜け出し再び王座に返り咲いたナポレオンですが、幸運の女神は2度とナポレオンに微笑みませんでした。天王山とも言われたワーテルローの戦いにも敗れ、今度はセントヘレナ島セントヘレナ島へと流されます。
こうして厳しい監視のもと永久に幽閉されることになったナポレオンは、失意のうちに病魔に冒され、死を待つだけの晩年を強いられたのです。
ただの一士官から皇帝にまで上りつめ、ヨーロッパ中を的に回してひたすら戦いに明け暮れた日々、ジョゼフィーヌとの儚き恋愛、様々な思いが脳裏に浮かんだに違いありません。
「全軍退却だ!余は…軍の先頭に…」
そう呟き、死んでいったそうです。おそらく彼の意識は燃え盛るモスクワを尻目に撤退を余儀なくされたロシアの大地をさまよっていたのでしょう。
・生年月日:1769年8月15日
・死没:1821年5月5日
・身長:168cmとされています
・配偶者:ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ (1796〜1809)
マリア・ルイーザ (1810〜1821)