難聴に苦しんだ音楽家ベートーヴェン ③ 「たとえこの耳聞こえずとも…」
20代後半から持病の難聴が悪化していったベートーヴェン。音楽家として聴覚を失うということは絶望的なことです。一度は自殺も考えますが、その苦悩を乗り越え、世に名曲の数々を輩出していきます。
1804年、交響曲第3番の発表を皮切りに、その後10年間にわたって代表作が次々と書かれ、ベートーヴェンにとっての「傑作の森」と呼ばれる時期を迎えます。
しかし、40代になると難聴はさらに悪化し、晩年の10年はほぼ聞こえない状態にあったとされています。もがき苦しみながらも大作を書き続けますが1826年には病状が悪化。そして、10番目の交響曲に着手するも未完成のまま…逝ってしまったのです。
ここでは、そんなベートーヴェンの後半生をまとめてみました。
ある夜のこと、いつものように作曲をしていると急に耳鳴りがします。数日後、耳鳴りがさらにひどくなったので病院へ行ってみると
「何でもありません」と言われてしまいます。他の先生にも診てもらいますが、さっぱりあてになりません。音楽家にとって耳が聞こえなくなるほどツライことはありません。
絶望で誰にも会いたくないベートーヴェン。ちょうどこの頃、また2人のダメな弟たちがベートーヴェンの楽譜を勝手に売ろうとし、兄を困らせてしまいます。
テレーゼもジュリエッタも、ベートーヴェンの心を慰めてくれる人は近くにはいません。けれど、ベートーヴェンの耳が遠くなったことを知らない人たちは、「先生、演奏会に出てください」「新しい曲を作ってください」と言ってくるばかり。
音楽家である以上、耳は命です。ある夜、部屋に篭ったベートーヴェンはペンをとり、弟たちに遺書を書きます。
カスパールとニコラスへ
僕の少しばかりの財産は仲良く二人で分けてくれ。そして幸せに暮らしてくれ。また、君たちの子供にはお金よりも徳とか人格というものの大切さを第一に教えてやってくれ。
この時ベートーベンは31歳。1802年10月のことでした。
しかし、遺書を書き終わったベートーヴェンはホッと安心したのか、聞こえない耳の中に湧いてくる音楽を感じ、「たとえ耳は聞こえなくても、頭の中の音を紙に書いて楽譜にすることができる。このまま死ぬのは卑怯なことだ。この手が、指が動く限りやってみよう。」と思えてきたのです。
それから、ベートーヴェンは次々と曲を作ります。そして、ついに「英雄交響曲」に取りかかることにするのです。ベートーヴェンは「ナポレオンこそは人民の自由のために闘った英雄だ」と考えており、彼に捧げる曲を作りたかったのです。
ナポレオン=ボナパルトに捧ぐ…
(いつかナポレオンに送り届けたいものだ)
しかし、「ナポレオンが皇帝になった」という報せが入ってくるとベートーヴェンはひどくガッカリしてしまいます。
まさか人民の自由のために闘ってきたナポレオンが、人民を縛る立場になろうとは思ってもいなかったのです。
結局、この曲は少し書き換えられ、ナポレオンには捧げず世に出ていくこととなります。曲は戦いに出ていく勇ましい英雄の姿に始まり、悲しい英雄の死の弔いに終わるという、立派な曲でした。
恩師ハイドンが77歳で亡くなりベートーヴェンが38歳となった1809年、「運命」や「田園」といった名曲が次々と生まれます。ところが、ナポレオンの軍隊が世界征服の野心に燃えてとうとうウィーンにも攻め込んできたのです。
ベートーヴェンたちはウィーンを離れ何とか難を逃れますが、ウィーンの街はフランス軍に占領され、貴族たちは破産し、結果、ベートーヴェンの生活も苦しいものになってしまったのです。
身も心もボロボロの状態となったベートーヴェンですが、ウィーンでもう一度やり直す決心をし、苦しい生活と戦いながらも作曲活動に復帰します。この頃、耳の具合はさらに悪くなってきていたのですが、少年時代からの憧れだった文豪ゲーテに会えたことで少し元気をもらいます。
ベートーヴェンにとって、今は作曲だけが生きる望みでした。この頃、ナポレオンはヨーロッパ各国の連合軍に敗れ地中海のエルバ島に流されたため、ウィーンの街は音楽の都として昔のように栄え始めます。ベートーヴェンは再び音楽会に呼ばれ、曲を演奏する機会に恵まれ始めます。
しかし、ナポレオンがエルバ島を抜け出し再び戦争に敗れ、セントヘレナの小島に流された頃、弟のカスパールが危篤になります。
カスパールからベートーヴェンへの遺言は9歳の息子カールを頼むということ。しかしカールは怠け者で泣き虫で嘘つき。とても手に負えません。
悪戦苦闘しながらも懸命にカールを育て、彼が大学へ入る頃にはベートーヴェン52歳。そして、55歳になったベートーヴェンは不良青年カールが家を出ていった頃、体調が以前よりも悪くなっていました。
この頃、カールはピストル自殺を図りますが、これは借金苦のための嘘の自殺。ベートーヴェンはカールを連れ、すっかりお金持ちとなった弟ニコラスの屋敷へと向かいます。しかし、ニコラスもニコラスの妻もとても冷たい態度をとってきたのです。
(あー、こんなことなら来なければよかった)
ニコラス家で体調を悪化させてしまったベートーヴェンは、ウィーンの自宅に戻ると肺炎のほかに肝臓と腎臓もやられ絶対安静の状態になってしまいます。腹膜には水が溜まり、手術で少し楽になることの繰り返し。
しかしそんな時、カールはベートーヴェンが一番嫌いな軍隊に入ると言い出し家を飛び出していきます。ベートーヴェンの容態は悪化するばかり。
死の瞬間、ベートーヴェンの枕元に集まったのはシューベルトの親友とニコラスの妻の2人だけ。ニコラスの妻は、自分の冷たい仕打ちを後悔し、罪の赦しを願おうと駆けつけていたのです。
それにしても、あれほど栄光に輝いていたベートーヴェンだったのに、何と寂しい最期なのでしょう。ついに、1827年3月26日、肝硬変により56年の生涯を閉じるのです。
ベートーヴェンが亡くなると、ウィーンの人々はその死を悼み、最期を見送ろうと数万の人が押し寄せます。しかし、軍隊に入ったカールはこの葬儀には参列していません。
・・・
その後、1888年にベートーヴェンはウィーン中央墓地に移され、ベーリングの墓地には墓石だけが残されています。
なお、ウィーン中央墓地には、1828年に30歳の若さでベートーヴェンの後を追うように死んでいったシューベルトの墓も並んで立っています。これはシューベルトが「尊敬するベートーヴェンのそばに埋めてほしい」と遺言を遺していたからなのです。
最後に、ベートーヴェンが残したいくつかの言葉をみてみましょう。
「はした金など求めず、星を求める生活をしなさい。」
「音楽とは、男の心から炎を打ち出すものでなければならない。そして女の目から涙を引き出すものでなければならない。」
「神がもし、世界でもっとも不幸な人生を私に用意していたとしても、私は運命に立ち向かう。」
「人間はまじめに生きている限り、必ず不幸や苦しみが降りかかってくるものである。しかし、それを自分の運命として受け止め、辛抱強く我慢し、さらに積極的に力強くその運命と戦えば、いつかは必ず勝利するものである。」
「私は何度も絶望し、もう少しで自殺するところだった。だが、彼女が… 芸術が… 引き止めてくれた。私は、自分に課せられていると思っている創造を全てやり遂げずに、この世を去るにはいかないのだ。」
「ぼくの芸術は、貧しい人々の運命を改善するために捧げられねばならない。」
「勇気!身体がどんなに弱っていようとも精神で打ち克ってみせよう。」
「優れた人間は、どんなに不幸で苦しい境遇でも、黙って耐え忍ぶ。」
「困難な何事かを克服するたびごとに、私はいつも幸福を感じます。」
「音楽があなたの人生の重荷を振り払い、あなたが他の人たちと幸せを分かち合う助けとなるように。」
「墓の下にいても、あなた達の役に立てる。これほどの嬉しいことがあるだろうか。」
「結局のところ、私に才能はあったのだろうか。」
難聴に苦しんだ音楽家ベートーヴェン ① モーツァルトの弟子となるも…