もしも関ヶ原で石田三成 (西軍)が勝っていたら…

 

石田三成ら西軍は10万、徳川家康ら東軍は7万。総勢17万の大軍が関ヶ原に陣を構えます。この「関ヶ原の戦い」で、石田三成はなぜ負けてしまったのでしょうか?

豊臣秀吉の死によって傾き始めた豊臣政権を簒奪するために徳川家康はいかなる謀略をめぐらしたのでしょう?一方、豊家安泰を守ろうとする石田三成はいかに戦ったのでしょうか?

 

そんな天下分け目の「関ヶ原の戦い」は、秀吉が亡くなった2年後の1600年に起こりました。主戦場は美濃 (現在の岐阜県) の関ヶ原 。家康の天下取りはここから始まったのです。

徳川家康を大将とする「東軍」と石田三成を中心とする反徳川勢力の「西軍」。先に石田勢が陣を構えたことから、あとから関ヶ原に到着した徳川勢は不利な配置となっていたとも言われています。

 

 

両軍は濃霧の中で対峙していましたが、霧が晴れて来た頃、福島正則の部隊 (東軍) が宇喜多秀家隊 (西軍) に鉄砲を撃ち掛けたことで火蓋が切られます。しかしながら、西軍は多くの将が様子見状態です。それでもはじめの頃は地形的有利が働いて、西軍が少し押していました。

 

もし小早川秀秋が裏切らなかったら…、もし豊臣秀頼が関ヶ原に来ていたら…、もし毛利輝元が戦いに参加していたら…。

もし合戦上手の島津義弘に2万人の兵力があったら…、もし西軍最強の立花宗茂が参戦できていたら…、

 

歴史にイフはありませんが、勝敗の行方は実に紙一重の差だった関ヶ原合戦。上述した「もし」のどれか一つでも逆に作用していたら、西軍が勝利したことでしょう。もし、西軍が勝利を収めていたら、歴史はどのように変わっていたことでしょう?

 

 

おそらく、石田三成が勝っていたら、その後の政治は秀頼がある程度の年齢になったところで関白に推任し、秀頼が三代目関白となっていたことでしょう。関白豊臣政権の復活です。

ただ、いつまでも四大老・五奉行体制が続くことを三成が考えていたかどうかはわかりません。毛利輝元・前田利長・上杉景勝・宇喜多秀家の4人の中から突出する者が現れたかもしれませんし、三成が夢見る豊臣専制体制とはならなかった可能性があります。

 

そうなると、またもや戦国時代の到来です。群雄割拠が入り乱れ、誰が天下を掌握するかはわかりません。ただ、豊臣や毛利、島津あたりに西日本勢のいずれかが天下を掌握したとしたら、現在の首都は東京ではなく、大阪や広島、鹿児島だったのかもしれません。

また、黒田如水が関ヶ原の戦いに間に合っていたら、九州が首都になった可能性もなきにしもあらず。

 

 

いずれにしても残念なのは、石田三成の正義よりも徳川家康の私利私欲 (ずる賢さ) が優ってしまったという事実。なんだかんだと夢や理想を追い求めても、結局は人間の汚い欲望が優ってしまう世の中。

そう考えると、安倍政権やジャニーズ事務所、高須クリニックなどの繁栄と徳川の根幹には共通の何かが存在しているような気もします。

 

でも、裏を返すと「時には大義も正義も捨てることが多くの人を幸せにする」という見方もできます。三成は理想が強く、それを相手にも求めることによって不用意に敵を増やしていたとも言われています。

ある意味、清廉潔白で素晴らしい人物でもありますが、関ヶ原の戦いにおいてはそれが裏目に出てしまったのです。事実、加藤清正や福島正則といった歴戦の猛者たちは、石田三成が憎く家康側に味方したところが大きいのです。

 

正義を貫くことは大事なこと。それでも、その正義を貫くことで世の中の人々が苦しまなければならないのなら、正義を捨てることも必要です。

このことを踏まえ、あなた自身の人生をもう一度見直してみてはいかがでしょうか☺️

 

 


最終更新日:2017/12/16