幕末の英雄「高杉晋作」の統率力・行動力に学べ
高杉晋作が生まれた長州藩の城下町は、山口県の萩にありました。
高杉晋作は14歳の頃、上級武士の子弟が通う明倫館に入りますが落第を繰り返します。決まりきった授業に、何の魅力も感じなかったのです。
しかし19歳のとき、九坂玄瑞に誘われ吉田松陰の松下村塾に入門するとガラッと一変。ここで、当時としてはかなり斬新的な考え方「人間の能力は地位や身分とは関係ない」ことなどを学びます。
(ちなみに、松下村塾には「四天王」と呼ばれる人物がいたのですが、それは、高杉晋作・九坂玄瑞・吉田栄太郎・入江杉蔵の四人の俊才たちのこと)
(この頃すでに剣の腕前は免許皆伝!)
当時、日本はアメリカの圧力で開国させられたばかりで、「外国に侵略されるのでは…」という不安が広がっていました。
そんな中、松陰は欧米列強の軍事力の脅威を説き、徳川幕府の外交政策を強く批判しますが、安政6 (1859) 年、捕らえられ処刑されてしまいます。
師を失った高杉晋作。
その胸に宿ったのは、松陰が果たせなかった外国視察の夢でした。
文久2 (1862) 年、高杉晋作は藩の代表として中国・上海の視察に派遣されます。1週間の航海の後、彼は、西洋人に牛馬のようにこき使われる中国人たちの姿を目にして、、、
「上海は英仏の属地となれり」
当時24歳だった高杉晋作の感想です。
(このままでは日本も中国と同じ運命を辿ることになる)
(徳川幕府に日本の舵取りを任せておくわけにはいかない)
2ヶ月後、日本に帰ってきた彼は同志を募り、「打倒幕府」を計画。驚いた藩の重臣は「言動を慎め」と諭します。
「10年経ったらお前の言うような時期が来る。それまで待て!」
「それなら、その時が来るまで暇(いとま)をもらいましょう」
重臣の事なかれ主義に怒りを露わにした高杉は、山奥に引きこもってしまいました。
1863年5月、開国に反対する長州藩は下関の関門海峡を通る外国船を砲撃!💥💥💥
その1ヶ月後、外国船が報復攻撃のため襲来します。近代的な兵器を持つ外国軍に対し、藩の武士たちはまともに戦うことすら出来ず、逃げまどうばかり…
藩主に呼び出された高杉晋作は、意見を求める藩主にこう答えます。
「有志の士を募り、一隊を創立し、名付けて奇兵隊といわん」
この奇兵隊に参加した隊士の半数以上は農民や町人でした。彼らは、「自分たちの国は自分たちで守る」という気概を持ち始めていたのです。
そして、奇兵隊に続き、藩内には民衆の部隊が次々と結成されていきました。
ところが、
農民たちが武器を持つことを快く思わない武士たちと奇兵隊が衝突!奇兵隊士が武士を斬り殺す事件が起き、高杉は奇兵隊の指揮官を解任されてしまいます。
さらに高杉は、藩を抜け出した罪を問われ、牢に幽閉されてしまうのです。
1864年、京都の旅館・池田屋で、長州藩の主だった藩主たちが幕府の命を受けた新撰組に斬り殺される事件が起きたのをきっかけに、長州藩と幕府の対立は決定的なものとなります。
さらに、アメリカ・フランス・オランダ・イギリスの4か国が関門海峡を襲来!
万策尽きた藩政府は、一転して高杉晋作に望みを託します。4ヶ月の幽閉を解かれた高杉は、外国艦隊との停戦交渉を命じられ、イギリス軍の提督の前に現れます。
この時の、外国艦隊の停戦の条件は
300万ドル (数百億円)
「ふむ、もともと外国艦隊との戦争責任は幕府にある。請求は幕府に行え!」
この時の高杉の様子を、連合艦隊側の通訳アーネスト・サトウはこう振り返っています。
「負けたくせに傲然と怒っていて、まるで魔王のようだった」
結局、この高杉の主張が通り、賠償金は幕府に請求され、講和条約が結ばれたのです。こうして危機を逃れた長州藩でしたが、もう一つの危機が迫りつつありました。
幕府による長州征伐です。15万の幕府軍に対し、長州の兵はわずか4,000。長州藩内では、幕府に許しを乞おうとする保守派が高杉たちの追放を謀ります。
暗殺者に狙われる高杉。身の危険を察した高杉は、長州を離れ、福岡に身を隠します。
1864年11月、幕府は長州藩に降伏を迫り、家老3人の切腹を要求します。
この要求を受け入れたことを知った高杉は、
「このままでは長州は潰れ、日本の改革は頓挫してしまう」
と考え、危険を省みず、一人長州へ舞い戻り、奇兵隊の駐屯地を訪ねます。
・・・
「高杉さん、決起は無謀だよ」
反対意見もありました。奇兵隊は300人。対する保守派の兵は2,000。さらに背後には15万の幕府軍がいます。到底勝ち目はないじゃないかと。
それでも諦めない高杉は、奇兵隊以外の隊を回って決起を呼びかけます。
・・・
12月、その呼びかけに応じて下関の功山寺に姿を見せたのは、松下村塾の後輩・伊藤俊輔 (のちの博文) が率いる力士隊十数人と、猟師たちによる遊撃隊60人、合わせてわずか80人あまり…
それでも高杉はこう考えるのです。
(たとえ数が少なくとも、時代を動かす力となる)
「これより、長州男児の腕前をお目にかける!」
高杉は藩の役所を制圧し、藩内各地に協力を訴えます。その呼びかけに応じて高杉のもとには次々と人が集まり、奇兵隊士も決起を決断。ついに、高杉の軍は3,000にも膨れ上がったのです。
そして1865年1月、高杉の軍は藩の保守派軍に勝利!保守派は全て追放され、長州藩は再び幕府に対して立ち上がることになったのです。
一人が80人を動かし、3,000人を動かし、そしてやがては日本全体を動かすことになっていったのです。
しかし高杉は藩の要職に就くことはありませんでした。
「人は艱難は共にできるが、富貴は共にできぬ」
藩を去った高杉は、イギリス留学を志し長崎へ。
幕府は再び長州へ軍を送ります。第二次長州征討です。またしても、長州藩が高杉を必要とする時がやってきました。高杉は留学を取りやめ、長崎から舞い戻り、夜、敵艦隊の停泊地へ向かいます。
まさか夜に攻撃してくるとは思わなかった幕府艦隊は混乱に陥り、長州は大勝利を収めたのです。この勝利をきっかけに、3,500の長州軍は10万を超える幕府軍を次々と打ち破り、徳川幕府の終焉は決定的なものとなっていったのです。
しかし、、、
長州軍が勝利に沸き返っている中、高杉は突然血を吐き倒れてしまいます。高杉は、肺結核に冒されていたのです。日毎やつれていく病の床で、高杉は歌を詠もうとします。
「面白き事もなき世を面白く…」
明治維新を目前に控えた慶応3 (1867) 年4月14日、高杉は静かに息を引き取りました。享年27。
高杉晋作の弟分で、のちに初代内閣総理大臣になる伊藤博文は、兄貴分である高杉の死後、彼を評してこんな言葉を残しています。
「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目駭然、敢て正視する者なし。これ我が東行高杉君に非ずや」