清原の心に響く「王貞治伝説」エピソード & 名言

 

高校卒業後、読売巨人軍に入団しプロ4年目の1962年夏、極度の不振に陥っていた王さんは試しに一本足打法に切り替えてみます。そして、結果が出たことにより、本格的に一本足打法の猛練習に取り組むようになっていくのです。

 

「世界のホームラン王」誕生のきっかけです!!

 

「努力は必ず報われる!もし報われない努力があるのならば、それはまだ努力とは呼べない!」

 

王さんの過酷なまでのストイックさと努力はあまりにも有名な話ですね。

 

そんな王貞治さんの伝説エピソードと名言についていくつか紹介してみたいと思います。

 

 

 

王貞治伝説

言わずと知れた元プロ野球選手の王さんは、通算成績と現役生活のあり方がすでに伝説エピソードです。1959年に高卒新人としては破格の契約金1,800万円年俸144万円と、当時としては信じられないくらいの好条件で巨人に入団します。それから21年間現役を続け、40歳で引退しました。

 

 

《 現役時代 》

通算成績は

  • 2,831試合に出場
  • 生涯打率3割1厘
  • 本塁打868
  • 四球2,390
  • 出塁率4割4分6厘
  • 長打率6割3分4厘

 

どれも素晴らしい成績です!

 

 

《 監督として 》

引退後の王さんは、巨人とホークスの監督を務め、通算19年で2,507試合1,315勝1,118敗74引き分け、勝率5割4分、Aクラス15回と、監督としても卓越した成績を残しています。

 

そんな王さんの一番印象的なエピソードとしては、やはり、「巨人軍」「世界の王」という名声を持ちながらも、巨人 (エリート) と袂を別つ覚悟で弱小球団ホークス (当時ダイエーホークス、のちにソフトバンクホークス) の監督を引き受けたこと。

 

 

そして、心ないファンから生卵をぶつけられ罵声を浴びせられながらも、最終的には常勝球団を作ってしまったことではないでしょうか。

 

根気よく、自ら若手を育て上げ、常勝ホークスを築いていったその忍耐と不屈の精神には頭が上がりません。。。

王さんは、野球道を究極に追求した高僧のような人だと思います。

 

 

 

長嶋茂雄さんとの比較

「我が巨人軍は永久に不滅です!」と言う言葉を残し、1974年、38歳の時に現役を引退した長嶋さん。

 

通算成績は

  • 2,186試合に出場
  • 生涯打率3割5厘
  • 本塁打444
  • 四球969
  • 出塁率3割7分9厘
  • 長打率4割4分

 

と、王さんに劣らない記録を持っています。ただ、監督としての長嶋さんはイマイチでした。

 

 

そもそも、二人の大スターを敢えて比較する必要もないのですが、強いて言うならば、

 

王さんは努力によって世界のホームラン王になった人!

長嶋さんは天性の勘でヒーローになった人!

 

二人とも、良きチームメイトではあっても、互いにライバルだとは思っていませんでした。長島さんは命尽きるまでヒーローであり続けるでしょう。一方の王さんもやっぱりヒーローなのです!

 

 

 

中日・多村 ボロボロの体に染みた王さんの言葉

中日の多村仁志外野手(39)は2016年、静かにユニフォームを脱ぎました…

この年の12月某日、お世話になった九州の関係者にあいさつ回りをしていた時、内緒で福岡の後援会がヤフオクドームで「引退式」を企画してくれました。多村の目には涙です。

 

「応援してくれた方々に引退試合を見せることができなくて申し訳ないと思っていました。150人以上の知人らの前で打席に入り、安打を放ち、家族の前で胴上げもされました。」

「僕は本当に人に恵まれ、最高の野球人生を過ごすことができたんです。本当に幸せ者です!」

 

プロ野球生活22年、どんな時も応援し続けてくれた人たちに心から感謝する多村仁..

そんな彼は2015年のオフに、DeNAから戦力外通告をされてしまいます。現役続行を希望し、2016年度は中日と育成契約を結びます。背番号215、年俸300万円。そしてわずか1年で自ら現役引退を決意したのです。

 

横浜高から1994年ドラフト4位で横浜(現DeNA)に入団。2004年には3割、40本塁打、100打点をマーク。王貞治監督が指揮を執った2006年第1回WBCではチームトップの3本塁打9打点の活躍を見せ、世界一に貢献。同年オフにソフトバンクにトレード移籍。

思わぬトレードに戸惑いを隠せない中、「縁を大事にしていこう!」と声を掛けてくれたのはWBCでともに戦った王監督でした。その人間力に影響を受け、今や多村にとって王さんは「尊敬してやまない人物」となっているのです。

 

 

 

清原和博 留置場で読んだ王さん自伝
 
2008年10月、引退試合でソフトバンク・王監督(当時)に深々と頭を下げる清原

 

 

清原は留置場で、王さんの自伝「もっと遠くへ」を読んだそうです。同書には王さんの幼少期から現在までの野球人生が綴られています。1985年の西武入団時の会見で、王さんの868本の本塁打世界記録を目標に掲げた清原は「王さんのバッティングに対する意識とか努力とかを改めて知り、簡単に王さんのことを言っちゃいけないんだな」としみじみ思い知らされたそうです。

 

そして、どんな状況からも絶対に逃げず、自分のスタイルを貫き通した王さんの“哲学”に触れ、自身の思いを新たにしたようです。

正直、清原には王さんに対する複雑な思いがありました。1985年のドラフト会議で、王さんが監督を務めていた巨人は、早大進学を表明していた同じPL学園の桑田真澄を指名。清原は巨人に裏切られた形で、西武ライオンズに入団することとなったのです。この悔しさを胸に、清原は現役時代を闘ってきたわけです。

 

1987年の巨人との日本シリーズでは、優勝決定まであと1アウトとなった時、グラウンド上で泣いてしまいました。この時の巨人の監督はまだ王さんでした。

ただ、遺恨は2008年の引退試合の時に解消されたといいます。王さんは「今度生まれ変わったら一緒に野球をしような」と清原に声を掛けたのです。

 

「僕と同じように王さんもひきずってくれていたんだ」

そう思い、感謝の気持ちに満ち溢れていったのです。

 
世界のイチローにも、その他大勢の人々にも尊敬されてやまない世界の王貞治!最後にもう少しだけ伝説をまとめておきましょう!

 

 

 

まとめ

・現役時代、シーズン前には不安を抑えるためタバコを吸い、シーズンが始まると止めるという奇行があった

・酒豪の王さんは、飲み比べをして勝てなかったのは横綱の大鵬だけだったそうです

・娘に性教育を教えないといけないと思った王さんは、娘の前で全裸になり、変態扱いされたことがあるそうな

 

 

最後に、

スタメンで20年出続けたとして
868本 ÷ 20年 = 43本のホームラン/年


野球において打者は受身。
投手が投げなければ打てません。
投手の力を利用することでヒットが打て、ホームランが打てるのです。


そういった観点に立てば

今より体格の小さかった人たちが投げるボールは球速が遅く、
HRを放つのは難しかったのではないかと思います。
そんな時代に868本のホームランとは・・・




やっぱり、すげえよ王監督!!
 
 

「僕は人生は円だと思ってきました。朝があれば、昼があり、夜があって、朝がくる。季節で言えば冬がくれば、春、夏、秋が来て。これはもう止めようがありません。人間にもサイクルみたいなものがあって、調子がいいときもあれば悪いときもあるんです。」

 
 


最終更新日:2021/05/30