歌手山本譲二さんの母「老人ホーム」で暮らす
世界一の長寿を誇る日本は、医療技術が進歩したばかりに「高齢者が意識のない状態で何年間も寝たきりになる国」でもあります。終末期で食べられなくなると、点滴や経管栄養(鼻チューブ、胃ろう)で水分と栄養が補給されます。
本人は何もわからないだけでなく、とても苦しい痰の吸引をされ、床ズレもできます。管を抜かないように手を縛られることもあります。「人生の終わりが本当にこれでよいのだろうか?」と考えずにはいられません。
多くの人にとって切実な問題
認知症外来に行くと、診察室に家族も入り、先生が患者さんに『将来、食べられなくなった時、胃ろうや鼻チューブで栄養を補ってほしいですか』と聞きます。すると、多くの患者さんは『そんなことはされたくない。そうなったらもうおしまいだわ』と言います。
その時、家族も必ず『私も望まない』と言います。『尊厳死協会に入っています』と言う人もいるくらいです。
現在、多くの人が80歳、90歳と長生きするようになり、寝たきり老人も増えました。だから、考えるのです。「自分の親にはどうすべきか、自分の場合はどうしようか」と。
山本譲二さんの母
親が認知症になって、介護施設に預ける状況になった時、当事者の心理は複雑です。遠方の実家で一人暮らしをしていた母親の様子が、帰郷の度におかしくなります。近所の人から「鍋に火をつけたまま忘れていた」とか、「お風呂を空焚きした」といった話を聞きます。
歌手山本譲二さんの母ハルヱさんは、山口県下関市の老人ホームで暮らしています。山本さんは、母の認知症が進んだ時期と自分や妻の病気が重なり、悩みは尽きませんでした。ホームへの入居を勧める時、「正直に自分の気持ちを伝えたらわかってもらえた」といいます。
認知症が進行
ある日、下関の実家へ母を訪ねた時のこと。「子どもはどうしてる?」と聞いてくるので近況を話しますが、何度も同じ質問をしてくる。ついイライラして、「何回同じこと聞くの」と、強い調子で言ってしまいました。あの頃が母の異変の始まりだったのかもしれません。
そのうちに、「変だな」と感じることが増えてきました。母の作るみそ汁の味がすごく薄かったり、ご飯が硬すぎたりするのです。
田舎にある墓
父は十数年前に他界し、母は長らく一人暮らしをしていました。帰省する度に「東京で一緒に暮らそう」と誘いますが、「お父さんのお墓は誰がみるの?」と頷いてくれません。「譲二に連れて行かれる。帰ってくるのが怖い」と周囲に漏らしていたことを後で知った譲二さん…
さらに認知症が進行
「いよいよやばいな」「何とかしないと…」
その後ハルヱさんは病院で「認知症」と診断されます。実家での生活を希望する母に、老人ホームへの入所をどう納得してもらうか、悩む譲二さん。
そして、「お袋の顔を見たら何か言葉が出てくるだろう」と腹をくくり、正月、母に会いに下関へ。
「俺、一つだけ悩みがあるんだ。それはお袋しか解決できないんだ」
そしてホームの件を伝えると、
「なんで家を出なくちゃならないの?」
「だから悩んでいるんだよ…」
すると母は、
「私がホームに入れば、譲二の悩みはなくなるの?」
こんなやりとりの末、1か月間、試しに泊まってみるという条件で納得してくれたそうです。譲二さんはこうも言っています。「悩みがあると言った瞬間、母の背筋がピンと伸びて、若かった頃の表情に戻った」「正直に話したからこそわかってもらえたのかもしれません」と。
入所後
関門海峡が一望できるホームで暮らす母を1か月後に訪ねてみると、友達も出来たみたいで、「(家に)帰らんでもええよ」と気に入った様子。本心からか、子を思う母の親心からかはわかりませんが、譲二さんはホッとしたといいます。
夫婦とも病気
山本さんは2009年に右耳の聴覚を失い、山本さんの妻は2010年に乳がんの手術を受けました。それは、ハルヱさんの認知症が進んでいた時期とちょうど重なるのです。同時に3つも大きな悩みを抱えることとなった山本さん。さぞ大変だったことでしょう。
月1回の訪問
ハルヱさんはホームでの生活にすっかり慣れ、元気に暮らしています。山本さんは月1回、東京から母を訪ねに行くそうです。ホームに入って良かったのは、母の表情が明るくなったこと。一人暮らしをしていた頃は、表情にかげりが見えていましたから。
友達と仲良くソファに座り、「お菓子屋さんが落花生を売りに来るのは何曜日だったかねえ」なんておしゃべりが延々と繰り返されます。山本さんはその会話を横で聞きながら、ゆったりとした時間に癒やされているそうです。
「母の認知症、自分や妻の病気、試練は重なりましたが、俺は悪い生き方なんかしてこなかった。そういう年回りだったんだ」。今はそう思えています。
山本さんの強い心
ハルヱさんの介護や家族の病気について思い悩んでいた時、山本さんは東日本大震災の被災地を思い浮かべたそうです。家族を失った人の話を聞き、被災地での苦労を考えたら、「俺たちはもっと頑張らないといけない。頑張らないと申し訳ない」。自然とそう思えたそうです。日本人の「心」や「情」を数多く歌ってきた山本さんらしい言葉ですね。
壁にぶつかったら思い出したいエピソードの一つです。