死後の世界に対する仏教のアプローチ

 

「死後の世界は本当にあるのだろうか?」「もしあるとすれば、それはどんな世界なんだろう?」

「宗教で言われてきたような天国とか地獄ってあるのかなぁ?」「霊界と言われる世界があるとするなら、そこでは具体的にどのような生活が営まれているんだろう?」

 

皆さんは、こうしたことを考えたことありますか?

 

 

 

 

「死後の世界」と「霊魂」に対する仏教のアプローチ

 仏教では、“輪廻思想” に基づいて「生まれ変わり」が信じられています。

 

そして仏教では、

輪廻の苦しみから解放されること、すなわち涅槃(ねはん)という輪廻のサイクルを超越した世界、もはや生まれ変わりの必要がない世界に至ること(解脱[げだつ])を最終目的としています。

 

この解脱が、シャカ仏教の最終目的となります。このことから分かるように、仏教では「人間は死によって無になることはない」としているのです。

 

「人間を含むこの世の一切のものは無常であって、それ自体として存在するようなものはない。独立した永遠不滅の実体というようなものはない。」

つまり仏教では、「永遠の生存を望むこと自体が間違った考えであり、人間はこの我に囚われるところから苦しみをつくり出している」と教えているのです。

 

そして、”苦しみ”を克服し悟りに至るために、中道に基づく八正道(はっしょうどう)などの修行方法が説かれてきました。

以上が仏教思想の概要です。不思議に思われるかもしれませんが、シャカ本来の教えには、霊魂とか霊界といった“永遠的実在”は存在しません。

 

 

「人間は死によって無になることはない」でも、「霊魂とか霊界といった“永遠的実在”は存在しない」。何とも不思議で理解しがたい世界ですね。

 

仏教における「輪廻はあるが輪廻の主体となる霊魂といった独立自我はない」という考えには、常識的に言って大きな矛盾があります。不変的な“独立自我”というアイデンティティーを認めてこそ、生まれ変わりが理論的に成立するからです。

 

 

 

 

矛盾した「輪廻観」の合理化

独立自我はないのに生まれ変わりはある、という矛盾した輪廻観を合理的に説明しようとして、シャカの死後、弟子たちによって難解でこじつけとも思えるような説が唱えられることになりました。

しかしそうした仏教理論上の問題とは別に、日本では多くの仏教徒が「死後の世界」や「霊魂の存在」を信じています。

 

仏教本来の教えからすれば、死後の霊魂などあってはならないものであり、それを信じることは弱さであり、錯覚にすぎないということになりますが、現実には多くの人々が霊魂の存在を信じている (信じたい) のです。

結果として、他界した先祖の霊魂に向け、延々と宗教的な営みを続けてきました。

 

 

シャカの唱えた仏教は、もともと死者のためのものではなく、生きている人間の悟り・生き方を目的としたものでした。しかし仏教はその後、本質を大きく変化させ、もっぱら死者のための宗教に変わってしまいました。

先祖の霊魂を救い、自分の死後にも救いを求める宗教へと変身していったのです。仏教は長い歴史を通して、「生者の悟りの宗教」から「死者の霊魂の救いの宗教」へと変化してしまったのです。

 

 

 

 

「霊魂」への人々の関心

霊魂の話は、日本だけでなく世界中の至る所に存在します。興味深いことに、最近では科学技術が発展している先進諸国においてこそ、霊魂に関する話題が人々の関心を集めるようになっています。

例えば、現在の日本では、死後の世界や霊魂の存在を信じる人が信じない人を上回っているのです。

 

霊界や霊魂という概念は、仏教やキリスト教などの伝統宗教の教義とは食い違っているにも関わらず、人々の中で、それらの存在がかなり常識的になりつつあるのです。

つまり、既成の伝統宗教が、死後の世界や霊魂の存在をどれほど声高に否定しようとしても、人々の関心を制することはできないのです。。。

 

 

 

 

「修行」本来の目的は

宗教における修行の本来の目的は、「霊主肉従」をいかにして確立するか、ということに集約されます。道具 (肉体) を携え、地上生活を送りながら、自らを「霊主肉従」の状態に保つためには大きな困難と苦痛を伴います。厳しい自己コントロールの努力が要求されるのです。

人間にとって、道具(肉体) をまといながらも清らかな気持ちを持ち続けることは並大抵のことではありません。本能に翻弄され、欲望に毒され、醜い思いを抱くようになってしまいます。「霊主肉従」を維持することは至難の業なのです。

 

 

これが修行者の内面における「闘い」の実相であり、魂の浄化を目指す “葛藤”なのです。魂の向上を目指す修行者や宗教者たちは、常にこうした「闘い」と遭遇し、悩み苦しんできました。

 

しかし、そうした苦しい霊的闘いも、死によって肉体を脱ぎ捨て霊体だけになると、その瞬間から消滅するようになります。心の底から霊的な清らかさを求めてきた人間にとって、死は苦しみから自分を解放してくれる祝福の時となるのです。

「肉体」は、人間が地上世界で過ごすために必要なものとして “神” が与え賜うたもの。それと同時に神は、人間自らが奮闘努力の中で「霊主肉従」の状態を確保し、霊的成長の道を歩むことを願われたのです。

 

 

 

 

正しい禁欲生活

「霊主肉従」…それは物欲や本能に流されないようにするための努力であり、ある種の禁欲的生き方を意味します。

とはいえ、その“禁欲生活”は、霊的摂理から逸脱した無意味で無駄なものであってはなりません。残念ながら、一般に見られる肉体行や荒行は、必ずしも人間の霊的成長にプラスなっているわけではありません。それどころか逆に、利己性・本能性を助長する結果を招いています。

 

しかし本来、「霊的摂理」の上に立ったストイック(禁欲的)な生き方を心がけることは、地上の人間にとって大きな「霊的成長」をもたらすことになるのです。

ただ、現代人は“ストイック”であることを極端に嫌っています。欲にまみれ、他者を蹴落としてでも自我の欲望を満たすことに必死でいるのです。

 

まるで前近代的遺物であるかのごとく…

 
 


最終更新日:2017/11/30