親日家フレディ・マーキュリーの恋愛と晩年の壮絶人生に学ぶ
伝説のロックバンド・クイーンのシンガーだったフレディ・マーキュリーは1991年、45年間の短くも太かった人生に幕を閉じました。そんなフレディは一流のアーティストらしく、多分に漏れず、恋多き人生を歩んでいます。
少年時代のことはよくわかりませんので割愛しますが、大人になってからの恋愛をみてまいりましょう。
まずはじめに、20代の若きフレディ・マーキュリーは盟友ブライアン・メイの紹介で知り合ったメアリー・オースティンと数年間交際しています (1970年代)。
しかし…
ウェスト・ケンジントンで共に生活するも、フレディがエレクトラ・レコード重役のアメリカ人と浮気をしたため破局。。。
それでも、フレディとメアリーは友人としてその後も仲良しこよし。
さて、
その次に有名な恋は、1980年代前半にお付き合いしていたオーストリアの女優バーバラ・バレンタイン。しかしこちらもその後破局。
フレディ・マーキュリーは、「ロックのイメージに合わないから」という理由から、インドで育った過去を隠したがっていたようです。友人たちが「お前、インド出身だよな」とからかうと、本当に嫌そうにしていたようで…
そんなことから、クイーンのメンバー内でもこの話はご法度。誰にでも、その人にしかわからないコンプレックスがあるということですね。
来日公演以外でも、度々お忍びで来日し骨董品などを買い求めていたフレディは、伊万里焼のコレクターとしても有名です。また、ロンドンの自宅には日本庭園を設けていたほどの日本通でもあったのです。
日本語にも精通しており、来日公演時のMCの半分は日本語でした。アルバム『バルセロナ』に収録されている「La Japonaise」の歌詞の大部分は日本語です。
嬉しいエピソードの数々ですね😉
フレディは愛猫家としても有名です。ロンドン・ケンジントンの自宅とドイツ・ミュンヘンの別宅に数匹の猫を飼っていました。
アルバム『イニュエンドゥ』収録の「デライラ」は、フレディが特に溺愛した飼い猫の「ディライラ」のために作られた曲です。
フレディは、同性愛者として1984年よりジム・ハットンと交際を始め、それ以後、死に至るまで約7年の間付き合っています。
最愛の恋人であったジムは、穏やかな性格と純粋な人柄でフレディを温かく見守り、フレディが死を迎える最期の時まで看病し付き添っていました。
特に、ジムがフレディによると思われるジム自身のHIV感染を、フレディに知られぬよう最後まで口外しなかったことは有名な話です。
(ジムは2010年1月1日に死去)
私生活では女性とも男性とも恋愛関係を持ち、度々多くの老若男女を招いて乱交パーティーを開いていたフレディ。
バスハウスと呼ばれる男同士の恋愛のためのバー・サウナ・ディスコを兼ねた複合施設にもよく足を運んでいたようです。
そして、親日家でもあるフレディには新宿二丁目に行き着けのバーがあったようです。
ジム・ハットンによれば、フレディは
1987年のイースター直後にエイズ (HIV) と診断されたようです。
その後、フレディの様態に異変が起きてきたのはアルバム『ザ・ミラクル』作成中の88年~89年頃でした。それでも、病を押して音楽活動に励んだそうです。
そして、鎮痛剤以外の、延命処置用の薬は取らない決意をしたフレディは、滅多に外出しなくなり、ウェスト・ロンドンのケンジントンの自宅でほとんどの時間を過ごしていました。
本人は対外的には噂を否定していたものの、英国のマスメディアは1990年頃から、フレディの痩せた外観、クイーンのツアーへの不参加などから、「フレディはエイズに感染しているのではないか」と盛んに報じていました。
(生前最後にステージに立ったのは、1990年2月18日にドミニオン劇場で行われたブリット・アワードの授賞式です)
フレディの死後、ブライアン・メイは、彼がクイーンの他のメンバーに対し、早い時期に真実を知らせていたことをインタビューで証言しています。
1991年5月の、輝ける日々のミュージック・ビデオは彼が生前最後に出演した映像作品ですが、その写真からは
痩せ衰えたフレディの様子が窺えます。
1991年6月、クイーンとの仕事を終えたフレディはケンジントンの自宅に戻り死に備えます。
死期が近づくにつれ、フレディの視力は衰え、容体は急激に悪化し、終いにはベッドから出られなくなってしまうのです。。。