島原の乱で散った純心!原城跡地に眠るキリシタンの想い

 

「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として、長崎県と熊本県にある複数の関連遺跡は、間もなくユネスコの世界遺産に登録されます。

その中の一つである「原城」のことを皆さんはご存知でしょうか?

 

(知らない?)

 

では、「島原の乱」「天草四郎」と言えば、名前くらいは聞いたことがあるでしょう。今回は、この島原の乱の舞台となった「原城」と「隠れキリシタン」の悲しき歴史についてわかりやすく簡単にまとめてみました。

 

(読み終えた後に…)

江戸時代、徳川幕府によってキリスト教が固く禁じられていた中で、密かに信仰を続けた「潜伏キリシタン」の存在にも思いを寄せていただければと思います。彼らは何を思い、どのようにして200年以上もの間、信仰を守り通したのでしょうか?

 

 

 

 

原城跡を散策 ☆

丘の頂上にある原城の本丸跡に立つと、早緑がまぶしい丘陵と、爽快に広がる天草の島々が見渡せます。

 

 

原城は、かつて「天然の要塞」でした。1604年にキリシタン大名有馬晴信が完成させた周囲4kmの巨大な城・原城は、東南北の三方を海と湿地に囲まれていたのです。築城当時は、満潮になると (現在は国道が通っている) 西側にも海水が入り込み、まるで隔絶された島のようでした。

そして、有馬氏の本拠だった日野江城は原城から約3kmのところにあります。晴信は、豊臣秀吉の朝鮮出兵で交流した諸大名から最新の築城技術を学び、日野江城から本拠を移すことを想定して広大な原城を築いたのです。

 

 

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この原城は、戦前の1938年に国史跡に指定されました。なぜ、1615年に一国一城令で廃棄され、役割を終えたはずの原城が、日本の歴史にその名を残しているのでしょうか?

それは、ズバリ!

 

 

 

 

 

 

悪政への反抗 ☆

有馬晴信はキリスト教を手厚く保護していました。このため、島原半島の領民はほぼ信徒になっていたのですが、徳川幕府は1614年、キリスト教の信仰を全国で禁じたのです。これにより、有馬氏に代わって領主となった松倉氏は住民たちに重税を課しキリシタンを雲仙地獄に投げ込むなどして激しく弾圧を行ったのです。

飢饉と悪政に絶望した島原半島南部の農民たちは、1637年12月、ついに蜂起します。代官を次々と殺害し、松倉氏の居城・島原城を攻めたて、呼応して決起した天草の農民と合流した住民たちは37,000人にも膨れ上がり、廃城だった原城に立てこもったのです。

 

このとき、弾圧で棄教していた人たちは信仰に復帰…

 

一揆軍は、「救世主」と仰ぐ天草四郎を総大将にして結束。その勢いは、鎮圧に来た幕府軍と激しく激突し、総大将の松倉重昌を戦死させるほどでした。その後、新たに総大将となった松倉信綱は正面突破は無理だと悟り、兵糧攻めに切り替え、オランダ船に原城を砲撃させ、西洋からの援軍を期待する一揆軍を心理的にも追い込んでいったのです。

 

 

1938年4月、12万の幕府軍はここでついに、士気が落ちた一揆軍に総攻撃を仕掛け、(幕府軍に) 内通していた山田右衛門作(えもさく) を除き、子供や女性も容赦なく皆殺しにしてしまったのです。リーダーの天草四郎も打ち取られ、原城は徹底的に破壊されてしまったのです。

 

余談ではありますが、この原城攻めにはあの有名な宮本武蔵 (このとき中高年) も参戦。ただ、原城側からの反撃 (落石) にあい負傷したとか

 

 

 

 

遺体を完全に封印したかった徳川幕府

1992年に始まった原城跡の史跡発掘調査で浮かびあがったのは、一揆軍の厚い信仰と、それに対する幕府軍の強烈な嫌悪感でした。ちなみに、本丸跡ではキリストや聖母マリアを刻んだメダルやロザリオの玉、十字架など、信仰用具が数多く出土されています。

正門付近では、一揆軍の人骨が大量に見つかりました。骨の状態から、幕府軍が首や足などを容赦なく切って殺害したことがわかっています。乱の後、幕府軍は、遺体の上に巨石を落とし、その上に土をかぶせて完全に「封印」しようとしたのです。

 

 

さらに史書を紐解いてみると、一揆軍はキリシタンの祈りを唱和してから戦っていたことがわかっています。当時の原城からは、常に賛美歌や祈りの声が聞こえていたことでしょう。落城の際には、笑顔で炎の中に飛び込む子供たちもいたといいます。

 

一揆軍は、四郎とともに天国に行くことを望んでいました。死をも恐れぬ農民の姿に、幕府軍は恐れ慄いたことでしょう。来世の救いだけを求めた民衆のけなげな信仰も、権力者からすれば「狂信的な反体制思想」でしかありません。

島原の乱に衝撃を受けた幕府は、この後「鎖国」と「禁教」の政策を一層強化していくこととなるのです。

 

 

 

 

「ほねかみ地蔵に花あげろ」

1644年、日本国内で活動していた最後の神父、マンショ小西は殉職しました。これから、残された日本のキリシタンたちは、本格的な潜伏の時代へと入っていくのです。

原城本丸の正門跡近くには「ほねかみ地蔵」という地蔵塔が立っています。原城跡にお越しの際には是非、ここで一礼してください。

 

 

島原の乱の後、しばらくの間、原城跡は忌み嫌われていました。大量虐殺があったのですから無理もありません。ただ、およそ130年ほど経った頃に開墾が始まります。この時、あちらこちらからおびただしい数の人骨が出てきたのです。

 

1766年、集めた骨は埋められ、地元のお寺・願心寺の住職と地元の人々が力を合わせて地蔵を建て、心を込めて供養をしてくれました。皆さんも、供養のためにぜひ手を合わせてあげてください。

 

 

 

「島原の乱」・・・

原城では、子供や女性を含めた数万人が殺されました。海岸には、2万人の首が並べられたといいます。人は、戦争という極限状態に置かれたとき、とんでもないことをしでかす生き物です。

 

 


 

ほねかみ地蔵に花あげろ

三万人も死んだげな

小さな子供もいたろうに

ほねかみ地蔵に花あげろ

 

 

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