「天下」よりも「カネ」に走った戦国大名の話
ときは戦国!下克上の乱世!荒くれ武将たちは「我先に!」と天下取りを志していた……かと思いきや、とりあえず天下は傍においておいて、我が道を行く戦国大名も意外に多かったようです。
では、彼らは「天下取り」ではなく何に目を向けていたのでしょうか?それは…あまりにも現実的な話なのかもしれませんが、残念ながら「お金」です。
羽柴(豊臣)秀吉が明智光秀を討った天王山!
徳川家康と石田三成が覇権を争い戦った「天下分け目」の関ヶ原の戦い!
現代の社会においても、「天下分け目」を通じて町おこし (金儲け) しようと世の中は動いています。つまり、なんだかんだ言ったって、「天下取り」よりも目先の「お金」の方が大事…なのかもしれません。
日本列島に群雄が割拠し、英傑がきら星のごとく輩出されていた戦国時代。。。歴史好きな方の多くは、幕末か戦国時代に目を向けることでしょう。
信長しかり、秀吉、家康しかり。
(彼らのように) 後世に名を残している有名武将だけでなく、守護大名から戦国大名へと移り変わっていく有力武将らにとっても、天下を制することは究極のゴールだったはずです。
ところが、その熱意を「天下取り」にではなく、海の向こうにある貿易 (富) に向けていた大名たちも数多く存在していたのです。
もしかすると、「天下統一」に動いていた大名よりも、アジア進出で「貿易→金儲け」に野心を注いでいた大名の方が多かったのかもしれません。
その代表格は、中国地方に勢力を張った大内氏でしょう。本拠地であった山口県には雅(みやび)な京文化が栄えていました。その原動力となったものは、ズバリ、室町政権期から培われた「対朝鮮」「対明」交易だったのです。
天下統一などそっちのけ…
大内氏は、倭寇鎮圧を足がかりに朝鮮と通交する一方で、室町政権への強い影響力を駆使して遣明船を経営していました。珍奇な舶来品を求め、勘合貿易に乗り出していたのです。国際貿易港でもあった博多を押さえ、商人や禅寺ともパイプを持っていました。
足利幕府が所持し戦乱で失われたとみられる「日本国王之印」の木製模造品ですら持っていたとされています。
しかも、自らを百済王の後裔(こうえい)とするほどの “国際派” でもありました。当時、この大内氏のような勢力は、そう珍しくはなかったのです。西国は海外を意識し、東国は国内を意識する。そんな時代だったのかもしれませんね。
2度の神風に救われたとする「元寇」の史実…のはずですが、実は近年、日本の勝因は神風ではなかったとする研究発表がありました。
モンゴル帝国(元)の襲来を鎌倉武士が2度にわたって食い止めた「元寇(げんこう)」ですが、現代人である私たちは、「運よく神風が吹いてくれたおかげ」でモンゴル軍を撃退できたと思い込んでいます。果たして本当にそうだったのでしょうか?
日本史の教科書には、文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)ともに、暴風雨(神風)が勝因であったと記しています。が、近年、新たな見方が浮上してきているのです。
1274(文永11)年、900隻、4万人もの元軍が対馬と壱岐を攻略。鷹(たか)島(長崎県)に上陸後、博多湾まで進出するのですが、暴風雨に遭い退却(文永の役)。。。
1281(弘安4)年、朝鮮発の東路軍と中国発の江南軍の4400隻、計14万人もの大軍が攻め寄せてきますが、日本側の防戦で一時撤退。さらに、鷹島に停泊中の船団を暴風雨が襲ったため退却(弘安の役)。。。
その後、皇帝フビライは3度目の日本遠征を計画していたそうなのですが、亡くなったため、沙汰やみとなったのです。皇帝フビライは、アジア統一と富の両方を望んでいたのでしょう。
それはともかく、近年の専門家の研究結果では、暴風もさることながら、鎌倉武士団は武力で敵軍を撃退していた、としているのです。
「神風」という言葉には何か魅力を感じますが、単なる運だけでなく、チカラで危機を乗り切ったとされる新事実?を知ると、なんだか嬉しくもあります。
幕末の志士、坂本龍馬もそうですが、日本国内のことだけでなく、海外に目を向けていった大内氏しかり。夢とロマンがあって素敵だと思いませんか?
当時と比べてみると、世界一周は愚か、宇宙旅行ですらも大したことではなくなってきています。皆さんも、大志を抱いて一度きりの人生を謳歌させていってくださいね☆