2024年度に発行される新紙幣は、2004年以来20年ぶりの刷新となります。「高精細のすかし模様」や最先端の技術を用いた「ホログラム」が導入されるほか、「額面数字の大型化」「指の感触により識別できるマークの形状変更」といったユニバーサル・デザインの考え方が散りばめられています。
ちなみに今回の「お札の顔」はどのようにして決まったのでしょうか。通常、紙幣のデザインは「財務省」「日銀」「紙幣を印刷する国立印刷局」の3者が協議して概略を決め、最終的には日銀法に則って財務相が決めることになっています。
肖像画人物の選定は、国民に広く知られ、学校の教科書に載るなど世界に誇れる人物であることが基準になっています。一方で、政治色が薄いことも求められています。さらに、偽造防止の観点から精密な写真が残っている人物が好ましいとも言われています。
「現金自動預払機 (ATM) や自動販売機などの改修で、紙幣デザイン変更への対応で7700億円、500円硬貨への対応で4900億円。合わせて1兆2600億円の需要が見込まれています。これに対して専門家は「デザインの変更はあくまで偽造を防ぐ観点から行うもの。経済対策ではない。」と述べています。
こうした特需への期待がある一方で、現金を使わないキャッシュレス化が進みつつあります。そんな懸念をよそに、安倍政権は新紙幣の発行を発表しました。やはり経済効果を狙い、政権維持のためにお札を利用したのかもしれません。事実、そんな声も多く聞こえています。
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医学者であり細菌学者であり、「日本細菌学の父」と言われる北里柴三郎さんは熊本県阿蘇郡小国町の生まれで、1853 (嘉永5年)〜1931年 (昭和6年) の間生きてらっしゃいました。1885年にはドイツ・ベルリン大学に留学し、コッホに師事。この度1,000円札の肖像に選ばれたのは、「破傷風の予防」「ペスト菌の発見」で広く世界に貢献したことが改めて評価されたからです。
そんな彼のニックネームは「ドンネル」(ドイツ語)。「雷おやじ」という意味です。規律に厳しかったからと言われています。それでも、「やる気をなくされては困る」ということで、人前で怒ることはなかったそうです。しかも、一度任せた以上は、弟子たちの仕事を遠くから眺めるだけだったとも言われています。
阿蘇での子供時代は負けず嫌いの暴れん坊だったようで、18歳の時に医学を志す道筋を与えてくれた熊本医学校のオランダ人医師マンスフェルトさん、ドイツ留学時代に師事したコッホさん、そして福澤諭吉さんが三大恩人と言われています。人との出会いって本当に大切ですね。
「医者の使命は病気を予防すること」と考えていた柴三郎さんですが、ドイツから帰国したとき、日本にはまだ伝染病の研究をする機関はありませんでした。このとき私財を投じて「伝染病研究所」を作ってくれたのが福澤諭吉さんだったのです。
晩年の柴三郎さんは自宅の庭一面に鳥小屋を作って、孔雀などたくさんの鳥を飼って可愛がっていたそうです。しかし、その鳴き声が近所迷惑だとわかると、上野動物園に掛け合ってすべてを寄付したようです。
関東大震災のときは70歳。彼は次男に「入院している妻を病院から連れてくるよう」命じます。ところが交通機関は乱れているし、あちらこちらで火災が起きているしでなかなか帰って来ない。ようやく帰って来ると、「遅い!」と雷を落としたそうです (笑)
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彼は生前、以下のような言葉を残しています。
「研究だけをやっていたのではダメだ。それをどうやって世の中に役立てるかを考えよ。」
「医師の使命は病気を予防することにある。」
そして、好んだ言葉は「終始一貫」です。常に基礎を大切にし、ペスト発見で世界に名を馳せた以降も、「何度も基礎へ立ち返るように」と繰り返しおっしゃっていました。
現代社会は、何かに特化した職人が生まれにくい時代とも言われていますが、終始一貫の精神に徹する人がある一定の割合存在してくれれば、未来は明るいと言えるかもしれません。
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5,000円札の肖像は、日本で女子教育の先駆者となって津田塾大学を創立した津田梅子さんです。彼女は東京都新宿区の生まれで、1864 (元治元年) 〜1929年 (昭和4年) の間生きていらっしゃいました。父親が政府に関わった人物で、その縁で若くして (6歳で欧米視察の岩倉使節団に随行して) 海外へ行くこととなります。
そのままワシントンD.C.のジョージタウンでランマン夫妻の家に預けられた梅子さんは現地で初等教育を受け、8歳のときにクリスチャンの洗礼を受けます。そして、13歳になった彼女は現地で女学校に入学し、ラテン語・フランス語などの語学、英文学、自然科学、心理学、芸術などを学ぶのです。
17歳で学校を卒業した彼女は、その年に日本へ帰国。翌年、岩倉使節団の副使だった伊藤博文さんと再会した彼女は、(父との確執もあり) 伊藤宅に住み込んで英語教師になります。その後、24歳のときに再び渡米しブリンマー大学に入学します。そんなバイタリティに富んでいた梅子さんは、ヘレン・ケラーさんやナイチンゲールさんとも会っています。
晩年は、鎌倉の別荘で長期闘病後、脳出血のため亡くなられています。
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彼女もまた、現代に通じる名言を残しています。
「東洋の女性は、地位の高い者はおもちゃ、低い者は召使いにすぎない。」
「人生の航路には独りで立ち向かわなければならない、それぞれの困難と問題があります。」
「皆さんのひとりひとりが『光を見る目、永遠の真理を知る洞察力、憐れみともっとも優しい慈悲に満ちた心、闇を照らす信仰』をもちますように。」
「人生の導き手である良い書物の中で語る偉人たちの言葉は、求めさえすれば皆さんのものとなることでしょう。」
「何かを始めることはやさしいが、それを継続することは難しい。成功させることはなお難しい。」
インターネットの普及などによって、なんでも共有し合える現代。今こそ敢えてひとりで感じ考えることに目を向ける必要があるのかもしれません。なぜなら、人は最終的にひとりだからです。なにより、「死」や「孤独」はすべての人がひとりで感じるものなのです。
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1840年、埼玉県深谷市で豪農の長男として生まれ育った渋沢さんは14歳で単身「藍葉の仕入れ」に出かけるようになります。この経験が、後にヨーロッパの経済システムを吸収しやすくする素地を作り出したと言われています。1858年、19歳で結婚すると1861年には江戸に出て儒学者・海保漁村の門下生に。さらには北辰一刀流・千葉栄次郎の道場に入門し、剣術修行のかたわら勤皇志士と交友を結びます。
やがて尊皇攘夷の思想に目覚め、「高崎城を乗っ取って武器を奪い、横浜を焼き討ちにしたのち長州と連携して幕府を倒す」という計画を立てますが、親族の反対により中止 (1864年)。その後、一橋慶喜に仕えることとなった彼は1867年、慶喜が将軍となったことで幕臣となり、パリ万国博覧会に出席する慶喜の弟の随員としてフランスへ渡航。この時ヨーロッパ各国を訪問し、先進的な産業・軍備を視察。将校と商人が対等に交わる社会を見て感銘を受けます。
1867年11月、徳川慶喜が大政奉還を建白すると新政府から帰国を命じられ、1868年12月に帰国。謹慎していた慶喜と面会し、「これからはお前の道を行きなさい」との言葉を拝受。明治2年 (1869年)、フランスで学んだ株式会社制度を実践するために商法会所を設立。しかし、大隈重信に説得されてすぐに大蔵省に入省することとなります。
大蔵官僚として様々なことに携わっていきますが、予算編成を巡って大久保利通 & 大隈重信と対立。1873年には井上馨と共に退官し、その後、官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行 (みずほ銀行) の頭取に就任。以後、東京海上火災保険、王子製紙、東急電鉄、秩父セメント、帝国ホテル、東京証券取引所、キリンビール、東洋紡績など、多種多様の企業の設立に携わっていきます (500以上)。
彼の凄いところは、他の財閥創始者と違って渋沢財閥を作らなかったことにあります。「私利を追わず公益を図る」という考えを一生涯貫き通し、後継者にもこれを固く戒めたのです。彼はまた社会活動にも熱心で、養育院の院長を務めたほか、東京慈恵会、日本赤十字社などの設立にも携わりました。商業教育にも力を入れ、一橋大学、東京経済大学の設立に協力したほか、女子教育の必要性を考え、伊藤博文や勝海舟らと女子教育奨励会を設立。日本女子大学、東京女学館の設立にも携わりました。
「現代経営学の発明者」と称されるピーター・ドラッカーさんは、「私は経営の『社会的責任』について論じた歴史的人物の中で、渋沢栄一の右に出るものを知らない。彼は世界の誰よりも早く、経営の本質は『責任』にほかならないということを見抜いていたのである」と述べています。
◉ 1840 (天保11年) 〜1931 (昭和6年)
◉ 日本の実業家、慈善家
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渋沢さんが残した名言を見ていきましょう。
「どんなに勉強し勤勉であっても、うまくいかないこともある。これは機がまだ熟していないからであるから、ますます自らを鼓舞して耐えなければならない」
仏教の言葉に「啐啄同時 (そったくどうじ)」というものがあります。鳥のヒナが卵の中から殻をつつくと、それと同時に親鳥が外から殻をつつく。殻を破るものとそれを導くもののタイミングがピッタリ合ってこそ、次のステージに出られるという意味です。物事にはタイミングというものがあり、それを静かに待つことが大事だと語っているのです。
「もうこれで満足だという時は、すなわち衰えるときである。」
「人は全て自主独立すべきものである。自立の精神は人への思いやりと共に人生の根本を成すものである。」
「商売をする上で重要なのは、競争しながらでも道徳を守ということだ。」
「全て形式に流れると精神が乏しくなる。何でも日々新たにという心がけが大事である。」
「できるだけ多くの人にできるだけ多くの幸福を与えるように行動するのが我々の義務である。」
「一人ひとりに天の使命があり、その天命を楽しんで生きることが処世上の第一要件である。」
「人は死ぬまで同じことをするものではない。理想にしたがって生きるのが素晴らしいのだ。」
「人を選ぶとき、家族を大切にしている人は間違いない。仁者に敵なし。私は人を使うときは知恵の多い人より人情に厚い人を選んで採用している。」
「夢なき者は理想なし。理想なき者は信念なし。信念なき者は計画なし。計画なき者は実行なし。実行なき者は成果なし。成果なき者は幸福なし。ゆえに幸福を求むる者は夢なかるべからず。」
紙幣はそう遠くない未来、発行されなくなってしまうかもしれません。それは「紙幣のない世の中」が訪れるかもしれないことを意味します。
そう考えると、上述の3人は「日本最後の紙幣肖像」になる可能性が高いのです。新紙幣は令和6 (2024) 年から発行されます。そのことを踏まえて、3人が歩んできた道を今一度学び直していただければと思います。