いずれ訪れる最期「人は一度しか死ねない」
人は誰しも、いつか必ず死にます。しかし、いつ死ぬのか、どのように死ぬのかはわかりません。年老いて不自由になった時、不治の病にかかった時、あなたはどのような最期を望むのでしょうか?
医学の進歩により、なんとかしてもらえる場合もあるでしょう。しかし、現実の問題として、高齢者や終末期の患者さんたちは、医学の失敗によって苦しくて辛い晩年を余儀なくされることも少なくないのです。
つい数十年前までは、老人たちは敬われ、大事にされ、家族の世話で看取られていくのが一般的でした。しかし、高齢化や核家族化などによってそのような最期は激減しています。
老化により自立できなくなった高齢者たちは、日本に限らず、施設で面倒を見てもらうしかない状況になってきているのです。
その施設にも問題はたくさんあります。安全と健康を重視するという観点から施設の都合で運営されるため、個人のプライバシーと自律は失われてしまうのです。
そして、そこで生きる意味さえ失われていく老人たち。誰もが幸福な人生を全うしたいはずなのに。。。
「最期まで、家族の世話になりながら自由気ままに生きていきたい」
現実には難しいことです。では、この欲求にどう対処していけばよいのでしょうか?
難しそうな気がしますが、少し視点を変えれば可能です。『日常生活動作支援介護付き高齢者集合住宅』という形。施設での生活を改善していくという取り組みの一つです。
ここでは、家で普通に暮らしているのと同様に、入所者自身がルールを決めます。「あれしちゃダメ!」「これしちゃダメ!」とリスク面を最小限にしようとする縛りはありません。
当然、「高齢者の安全確保を第一に!」という反対の声もあります。しかし、海外でこのスタイルをとっている施設の入居者を調査したところ、
生活満足度が高いだけでなく、健康も身体能力も認知能力も、何もかもが高く保たれ、さらに、経費も安くてすむということが明らかになったのです。
施設で、犬・猫・インコなどのペットを飼うようにしているところもあります。こういった施設の入所者たちは生気を取り戻し、しゃべれないと思われていた人がしゃべり出したり。。。
これら二つの取り組みの結果は良好です。高齢者たちは生き生きと暮らせるようになりました。実際に、薬代は減り、死亡率までもが減少しているのです。
人には「生きる理由」が必要なんです!
自分の意思に基づいた自律的な生き方が必要とも言えるでしょう。それは老化だけでなく、不治の病に冒された場合も同じこと。
万が一生きる理由を失ってしまった場合、取られるべき方法は2つ。
- 「生きる意味」を与えてあげる
- 降りるべき終着駅を本人に決めてもらう
例えば、ステージⅣの末期肺がん患者に対して「通常の治療のみを行った」の場合と「それに緩和ケアを加えた」場合を比較してみましょう。
後者では、状態が悪化したときに「何を目標とし何を優先するか」を専門のスタッフと話し合うことができます。その結果、化学療法を中止するのが早くなり、臨終の際の苦痛が少なくなるのです。
あなたはこの結果をどう解釈しますか?
さらにもう一つ。驚くべきことに、緩和ケアを受けた患者は受けなかった患者に比べて、なんと25%も長生きしているのです。画期的な新薬レベルだと思いませんか?
Aさんは、90歳を超えて主治医に止められても、大好きな馬に乗って草原を駆け回ることをやめませんでした。晩年はたくさんの家族に見守られながら暮らし、最後は交通事故で亡くなりました。
一方Bさんは、それとは対照的にやむなく老人ホームに入所し、最後の数ヶ月はただ黙って死を待つばかりでした。家族の見舞いもなく…
あなたはどちらの人生が幸せだと思いますか?
最期の瞬間まで、最善を尽くし目標を持って生きるということ
今回の記事は「いかに死ぬか」だけに焦点を当てているように思われるかもしれませんがそうではありません。
「いかに生きるか」こそがテーマなのです。その最後のページに「死」があるだけなのです。
一度、自分の人生について、エンディング(最終回)を決めたストーリーをしっかりと思い描いてみませんか?
きっと、今の生活が大きく変わるはずですよ ☆