坂本龍馬と「長崎の女 」「 亀山社中 」【まとめ】

 

幕末の1864年、日本国内に残る最古の教会が長崎市南山手町に建ちました。その名は大浦天主堂 (国宝)。この大浦天主堂を建立したパリ外国宣教会のプティジャン神父は、色ガラスを組み合わせたステンドグラスを正面や側面の窓にふんだんに施しました (当時、日本にはガラス板を製造する技術はなく、外国から取り寄せました)。

この大浦天主堂は、1865年3月にプティジャン神父と隠れ(潜伏) キリシタンが出会った「信徒発見」の舞台であり、坂本龍馬も見た歴史的大遺産なのです (まもなく世界遺産になる予定です)。

 

◉ 人の世に道は一つということはない。

◉ 俺は落胆するよりも次の策を考える方の人間だ。

 

by   坂本龍馬

 

 

 

 

土佐藩 (高知県) の町人郷士坂本家の次男として生まれた坂本龍馬 (1836年1月3日・天保6年11月15日  〜  1867年12月10日・慶応3年11月15日) は、のちに土佐藩を脱藩し、幕臣勝海舟のもとで航海術を習得し、長崎で日本初の貿易会社政治結社「亀山社中」を結成し、海運業でその才能を発揮していきます (その後、海援隊を組織する)。

一方で、仲の悪かった薩摩藩と長州藩の間を取持ち、薩長同盟の締結に尽力。徳川慶喜の大政奉還まで画策し、明治維新を大きく推し進める原動力となったのです。

 

結局、京都の近江屋にて何者かに襲われ (暗殺され) てしまったため、夢半ばでその人生に幕を閉じることとなったわけですが、もし彼がその後も生きていたら、どんな人生を送っていたことでしょうねー。きっと長崎を拠点として、大きく世界に羽ばたいていたことでしょう。

 

 

 

 

亀山社中 (海援隊)

 

 

「社中」とは「人が集まる」という意味です。亀山社中は軍事的・政治的・商業的に「人が集まる」組織だったわけですが、この組織は1865年に立ち上げられました。海運、貿易、そして政治活動を行うために…

薩摩藩などの援助を受け、その地名から「亀山社中」と名付けられたのです。この亀山社中は長崎の港や長崎奉行所、長崎街道が眺望できる情報収集の適地でもあったのです。

 

当初、交易の仲介や物資の運搬などで利益を得、さらには薩長の橋渡し役として運営は順調だったのですが、次第に難問が山積みし、1867年には土佐商会 (後藤象二郎) の傘下となり、土佐藩から資金援助を受けるようになります。この時「海援隊」と改称します。

本部は小曽根邸 (現在の長崎地方法務局) へと移り、薩長両藩のために輸送・武器船舶の購入・和解斡旋といった独自の活動を行なっていくわけです。

 

しかしながら、坂本龍馬が暗殺されて以降はパッとせず、1868年には土佐藩の命令により解散となるのです。

 

 

 

 

海援隊旗 ☆

 

 

1865年、勝海舟が薩摩藩の西郷隆盛に龍馬たちの世話を頼み、長崎に「亀山社中」が設立されることになるわけですが、1867年、龍馬が脱藩罪を許されたのを機に薩摩藩に変わって土佐藩が後ろ盾となり「海援隊」と改称されます。

隊長・坂本龍馬を中心として、「赤白赤」の旗印もこの時決定されました。この海援隊旗は「二曳 (にびき)」とも呼ばれていました。

 

この時、海援隊の会計を担当していた岩崎弥太郎が、のちに「三菱」の基礎を作り、その船舶部門が現在の日本郵船につながり、海援隊と同じ白地に2本の赤線が社のマークとなっています。

 

 

 

 

龍馬とお龍 ♡

 

 

1841年、のちに龍馬の妻となるお龍は医師の娘 (長女) として生まれますが、父親は井伊直弼による安政の大獄で捕らえられ獄死します。そのため、お龍と母、幼い4人の弟妹は生活に困るようになり、お龍は家族を養っていくため旅館で働き、のちに天誅組残党のまかないとなります。

しかし、天誅組が幕府の追討を受けるようになると、各地を放浪するように。。。この時龍馬と出会い、龍馬からその自由奔放なところを気に入られて愛人となり、その世話を受けて寺田屋で奉公することとなるのです。

 

1866年、薩長同盟の成立を悟った新選組によって寺田屋が包囲された時、お風呂に入っていたお龍はいち早く気づき、パッと浴衣を着て龍馬に危機を知らせて救ったとされています (寺田屋事件)。

この直後に2人は結婚し、小松帯刀の誘いで薩摩 (鹿児島県) へ温泉旅行に出かけています。これが日本初の新婚旅行と言われています。

 

1867年、龍馬が暗殺されたとき、お龍は豪商の伊藤助太夫のもとにいたため難を逃れました。その後、三吉慎蔵がお龍の面倒をみていたのですが、1868年には土佐の坂本家に行くことになります。龍馬の姉・乙女のもとに身を寄せますが、すぐにここを立ち去っています。

 

 

 

 

龍馬と長崎の女 ♡

 

 

龍馬が愛した…とされる長崎の女性にお元という丸山の芸者がいました。茂木びわで有名な茂木生まれの彼女はよく気が利き、男好きする美貌の持ち主だったといいます。琴や三味線もうまかったようです。お龍は、海援隊の本部があった小曽根邸にしばらく住んでいましたが、そのお龍が下関に移ってからはお元と過ごしくつろいでいたようです。

他にも、錦路という名の芸者たちにも慕われていたようです。龍馬はモテモテなんです♡

 

また、龍馬が恩恵を受けていた人物として忘れてはならないのが大浦慶です。龍馬とはイギリス武器承認グラバーを介しての出会いでした。これを機に「お慶さん」から何かと可愛がってもらっていた龍馬とその仲間たちは「お慶屋敷」を秘密の拠点として使わせてもらいました。

これら以外にも、青年志士と遊女との関係には非常に深いものがあります。ある時は傷ついた志士を手当てしてかくまい、またある時は伝言役として連絡役を買って出て、身を粉にして志士たちを助けていた遊女たち。。。

 

国家の大業を目指す志士たちの心意気は、彼女たちにとても魅力的に映ったのでしょうねー。

 

 

 

 

日本で最初にブーツを履いた男 ☆

 

 

坂本龍馬は、日本で最初にブーツを履いた男としても有名です。当時土佐では身分制度が厳しく、下級武士である郷士の家に生まれた龍馬は草履しか履けませんでした。自由の地長崎で、龍馬はブーツを履き、何を思い長崎の空を見上げたのでしょうか?

そんなことに思いを馳せながら、龍馬と縁の深い長崎の街を散策してみるのも悪くはありませんね。当時の長崎は英米など諸外国の文化や情報に溢れ、龍馬たちに大いに刺激を与えたところです。有名な「龍馬の立ち姿」写真が撮られたのも長崎なんですよ♡

 

剣術が強くて正義感があって、時代の先を読む力も構想力もあって、行動力が素晴らしく、商才に長けていて、精神は自由にして闊達。気遣いの人でもあったので、男性からも女性からもモテモテでした。

また、あらゆる事柄を虚心に学び、しなやかな発想を有し、人と人を繋いでいた龍馬。そんな龍馬が現代でも人気な理由はその器の大きさにあります。

 

 

当時の平均身長は150cm台であったため、174cmだったとも180cmだったとも言われている龍馬は、いずれにしても当時の大男だったわけです。

近江屋での暗殺事件に関しても、刺客の本当の狙いは中岡慎太郎暗殺にあった、とする説もあります。また、龍馬は発達障害 (ADHD) だったとか、梅毒だった、アルコール依存症だった、肝炎だった、マラリアだった…なんて話があったり、薄毛 (若ハゲ)だったなんて研究結果もありますが、そんなことは関係ありません。

 

冷静な判断力で時代を見通しながら、稀に見る行動力を発揮した龍馬。黒子的プロデューサーに徹しつつ、倒幕から明治維新に至る次代のシナリオを演出する大役を果たした男、それが坂本龍馬なのです。

 

 

 

 

◉  世の人は われをなにともゆはばいへ わがなすことは われのみぞしる

(みんなは言いたいように言えばいいさ。自分の行動の真意は、自分だけが知っているのだから。)

 

 

公武合体か、尊皇攘夷か、倒幕か――。混沌とした世情の真っただ中、龍馬は勝海舟と出会い、わが身の置き所にも向かうべき道にも目覚めていました。

皆さんも、龍馬に習って (命をかけてでも進むべき) 自分の道を歩み続けていってくださいね!

 

 

 

 

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