ゴスペラーズの義父さだまさしに学ぶ「人間愛・本当の強さ・優しさ」
「解夏」「眉山」「アントキノイノチ」「風に立つライオン」などの小説がドラマ・映画化され、”まっさん” の愛称で親しまれているシンガーソングライターのさだまさしさん。
ご存知の通り、数多くのヒット曲・名曲を世に送り出しています。
その中で例えば、さだ作品のテーマでもある「人の優しさ」を一番色濃く歌っているかもしれない『案山子』に注目してみると、いろんなことが見えてきます。
この『案山子』は普通に聴いていると、東京で暮らす子どもを故郷の親が「元気でやっているか」と案じる内容に思えるかもしれません。
しかしこの曲は、聴く者によっては親子ではなく兄弟姉妹の愛を歌ったものでもあるのです。
さださん曰く「この曲は、大きな松の木の足もとで遊んでいた子どもたちの1人が成長して都会へ出て行き、松の木が『お前元気か?たまには帰ってこいよ』と歌いかけるような感じ」なのだといいます。
深いですね〜
味わいがありますね〜
今回は、そんなさだまさしさんの人柄を伝えるための記事にしてみました。さだファンも、そうでない方も、是非最後までお付き合いください。
グレープ時代のヒット曲『精霊流し』(1974年)は、さださんが従兄弟を亡くした体験をもとに作った作品です。
この曲を作るにあたり、一番の歌詞で“死”に触れていることから、二番は敢えて明るい響きのある「あ」という文字を多用して、暗い印象が中和されるよう意識的に作詞したそうです。
これはさだテクニックの一例ですが、それでも『精霊流し』や『道化師のソネット』を聴くとジーンと歌詞が沁み込んでくるのは作品が完成されているからなのでしょう。
ドラマ『北の国から』の主題歌を手がけたさだまさしさんは、倉本聰監督とのやりとりの中で、この名曲をたった30分で仕上げたことを打ち明けています。
『北の国から~遥かなる大地より~』が正式な曲名ですが、今も名作として人気のあるドラマ『北の国から』は、その舞台となった北海道富良野を一躍有名にしました。ロケ地である麓郷の森は観光名所となり多くの人々が訪れています。
さて、
倉本聰監督から「ギター持って来い」と呼ばれたさださんは、まだ音楽も入っていない『北の国から』の1話と2話のビデオを見せられ、「どうだ?」と感想を尋ねられ「最高ですね」と答えます。
すると監督は「お世辞言ってないか!?」と念を押します。「いえいえ、最高です!」と答えるさださんに監督は確信したように言い放ちます。「じゃあ、曲作れ。今作れ」と。
挿入歌の欲しい箇所のシーンを見せ、「はいっ! ここっ!」と叫ぶ監督。
「もう1回いくぞ!はい、ここ!」と3度ほど繰り返したところで、ちょちょいと作詞作曲。
「♪あ~あ~」とあのメロディーを口ずさむさださん。
「いいじゃないか!まさし!いいよ!」とご機嫌な監督。
こうして、『北の国から~遥かなる大地より~』は30分ほどで完成したのですが、歌詞をつけない選択はさすがに勇気がいったそうです。
ちょうどこの頃さださんは、映画『長江』の制作で30億円を超える膨大な借金を抱えていました。
当時はまだ28歳。この若さでそれほどの大仕事に踏み切ったことも凄いのですが、実は、借金をする前に故郷長崎に“詩島”という島を所有していたのです。
(島は2千万円。ロッジが数千万円。海を汚さないように整備した浄化槽が5千万円。)
長崎の“詩島”…
中国の“長江”…
そして北海道の“富良野”…
さだまさしさんは『関白宣言』のような歌の世界とは違い、スケールの大きなことが好きな男なのです。
さだまさしさんは『東日本大震災復興支援 チャリティーコンサート 2015長崎から東北へ in 日本武道館』を東京・日本武道館で開催しました。
これだけでなく、
1987年から20年間、広島の原爆の日に故郷・長崎の稲佐山公園野外ステージで、無償コンサート『夏、長崎から』を続けていました。
他にも…
とにかく、音楽を通じてありとあらゆる社会奉仕活動を行っている熱い男なのです!
その後、東日本大震災の支援を目的とした『長崎から東北へ』を2013年に再開。3回目となる2015年が日本武道館となったわけです。
実は、「ゲストを長崎まで呼ぶとお金がかかるので、それを義援金にまわせないか」ということから武道館を選んだらしいのです。
これ以外にも、幾多のチャリティーコンサートを開催したり、被災地の高校に楽器をプレゼントするなど、支援活動はさださんにとってライフワークの一つなのです。
「音楽は無力だと思っていたけど、微力だね。かすかだけどね、心がちょっと動くだけの力があるみたいね」
震災後翌々月の5月に初めて石巻に入ったさださんは
「あの状況を体で感じた人間は普通でいられないと思いますよ」
と静かに胸の内を明かしてくれました。
「傷は他人には癒せません。僕らができることは“忘れていませんよ”“応援していますよ”と発信し続けること。もういいからと言われるまでは続けていこうと思います」
2003年3月にリリースしたに2ndシングル『さくら(独唱)』が大ヒットとなり一躍人気アーティストの仲間入りを果たした森山直太朗。
その後の彼は「周りの景色や人との関わりがガラっと変わってしまい、それに耐えきれず心がきしむようなところがあった」「歌うことがすごく攻撃的だった」そうです。
そんな中、2008年に発表した16thシングル『生きてることが辛いなら』では、「自殺を助長する歌詞の内容じゃないかっ」と強い批判を浴びました。
落ち込む直太朗…
そんな彼を励ましてくれたのが何を隠そう我らがさだまさしだったのです。
「僕なんか常に悪口を言われたからね!」
『精霊流し』(1974年)では「暗い」、『無縁坂』(1975年)では「マザコン」、『雨やどり』(1977年)は「軟弱」、『関白宣言』(1979年)は「女性蔑視」、『防人の詩』(1980年)で「右翼」などと言われ続けてきたさださん。
「言う方はしゃれや遊びのつもりでも、言われる方は“えー、歌なのにそこまで言う?”って傷ついたりする。これはいじめの構図だ」
「だから、負けんなよ! このくらいなんでもない。お前は正しいことやってるんだから胸張ってやれよ!」
と力強く励ましてあげたそうです。
「歌作りの人間って今を切り取ったり、変だと思うことを変だとはっきり言う必要がある。それを恐れちゃいけない勇気を出せ!」
と、さださんにしかできそうにないエールを送ったと明かしつつ「留守電でしたけどね」とオチも忘れないところが何とも憎いですねー
最後に、
娘さんのご結婚おめでとうございます!
(2015年夏)
参考までに、娘さんはピアニストです♡