「仕事なんか生き甲斐にするな!」

 

「長時間労働」「過労死」「自殺」・・・電通の過労死自殺事件をきっかけに、日本の長時間労働がいよいよ問題になってきています。

とはいえ、「働くことこそ生きること」「なんでもいいから仕事を探せ」「働け!働け!」といった風潮は根強く、息苦しさを感じ続けている人も多いのではないでしょうか。

 

人間は、生きることに「意味」が感じられないと生きてはいけない唯一の動物です!
 

でも、私は思うんです。その「意味」は、何も仕事に限定されなくてもいいんじゃないのか、と。

 

 

この一見豊かになった現代社会において、「生きる意味が感じられない」と苦悩する人々が急激に増えてきています。
 

「自分が何をしたいのかわからない」といった「存在意義」に苦悩する人々が増えてきているのです!

 

近年激増したいわゆる「新型うつ」に対して、一部の精神科医たちは批判的な発言を繰り返しているようです。専門家ですらそのような状況なのですから、現代病とも言える「生きる意味」に対する答えを見つけることはやはり容易なことではありません。

ただ、繰り返しになりますが、過剰なストレスで苦しみ続けるくらいであれば、何も「仕事が生き甲斐である必要はない」と思うのです。

 

 

 

ユダヤ人精神科医のヴィクトール・E・フランクルは、以下のようなことを述べています。

「どの時代にもそれなりの神経症があり、またどの時代もそれなりの精神療法を必要としています。」

 

 

 

 

ナチスによって強制収容所に収容されたフランクルの教え

フランクルは1905年にウィーンに生まれましたが、ユダヤ人であったがためにナチスによって強制収容所に収容され、かの過酷な経験をしました。しかし、幸運にも生還した彼は、その経験を深く考察し、のちにこれを『夜と霧』という本に結実させたのです。

この本でフランクルは、人間について、とても重要な真実を述べています。それはつまり、人間という存在は、「生きる意味」を見失うと精神が衰弱してしまうのみならず、生命そのものまでもが衰弱し、ついには死に至ってしまうこともある、ということです。

 

 

彼が目撃したこの人間の真実は、決して強制収容所という限界状況だけで認められる特殊なものではなく、一見平和な暮らしを営んでいる私たちにもそのまま当てはまる普遍的なものなのです。

 

 

 

 

生きる意味を問う夏目漱石の「高等遊民」

例えば、夏目漱石の小説には、彼自身の実存的な苦悩を体現したかのような人物がしばしば登場します。そのような人々は、当時、総称的に「高等遊民」と呼ばれましたが、これは、日露戦争の前あたりから使われ出した言い方で、旧制中学卒業以上の高等教育を受けながらも一定の職に就いていない人を指す言葉でした。

 

 

彼らは国家の将来を担うべきエリートとして高等教育を施されたにも関わらず、卒業しても就職口が飽和していて、なかなか定職に就くことができませんでした。これは当時、深刻な社会問題となっていました。

 

彼らは、高度な学問を修めたことによって、旧来のムラ的共同体の封建的価値観から脱却し、「近代的自我」に目覚めた人々でした。彼らが実存的な苦悩を抱くようになったのも、この「近代的自我」が導いた必然だったと言えるでしょう。

職に就けない「遊民」である不満が元になり、いつなんどき体制に対して反逆を企てないとも限らない存在として、国家側からは恐れられ、危険視されていた面もあったのです。

 

現代においては、多くの人が高等教育を経ているにも関わらず、ニート、フリーター、ワーキングプアなどの言葉が次々に生み出されるほど過酷な就労環境になっています。

毎年、東日本大震災による死者数をはるかに超える自殺者が出続けているという現実・・・

 

あなたはどう思いますか?

 

 

 

「生きる意味」を問うことなんて無駄なこと?

現代社会において、「実存的な苦悩」を抱いている人たちは、ますます困惑させられています。そんな中、「生きる意味」を問うことは無駄なことなのでしょうか?

私はこう思うんです。諦めない限りにおいて、「実存的な問い」には必ずや出口があるものなのだと。

 

 

幸い、私自身は、「実存的な苦悩」から抜け出て「生きる意味」をつかむことに成功しました。それは、人間が真に人間らしい在り方に生まれ直すとても感動的な瞬間でもあり、「第二の誕生」とも呼ぶべきものだったのです。

皆さんにも、社会的成功や世間的常識などに囚われることなく、真の意味で「自分らしく」生きていっていただけたらと心から願っております。

 

 

 

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