ナポレオンの「栄光と挫折」人生 ⑤ もしジョゼフィーヌとの間に子供が生まれていたら

 

頼りないフランス新政府軍の中で頼れる男ナポレオンは、パリで起こったデモを鎮める任務を言い渡されます。

 

(フランス人同士が争うなんて、本当に不幸せだ…)

(むやみに血を流してはいけない。フランスは早く平和になってイギリスに負けないような国にならないと…)

 

そんな思いを胸に、ナポレオンは司令官として、騒ぎが大きくなる前に見事デモを鎮めます。

 

 

ジョゼフィーヌ

ナポレオンは、ひょんなことから知り合った未亡人のジョセフィーヌに心惹かれ結婚します。それからほどなくして、フランス政府はオーストリア軍と戦う司令官に若干27歳のナポレオンを任命します。当時、世界一とも言われたオーストリア軍との戦いを前に、ナポレオンはジョゼフィーヌにさよならをして、ニースへと出発したのです。

 

「君たちは皆立派な勇士だと思っている。フランスが立派な国になるかならないかは君たちのチカラ次第だ。フランスのため、しっかりとやってもらいたい」 (by ナポレオン)

 

かつてナポレオンの上司だった者の中にはナポレオンを馬鹿にする人もいましたが、若い兵士たちは「これまでの司令官とは違う!本当に僕たちのこと、フランスのことを考えてくれているんだ!」と感激です。

 

こうしてナポレオンはフランス軍を率いイタリアへと攻め込みます。オーストリア軍10万人。フランス軍2万人。

数的不利の中、ナポレオンは自ら先陣を切り、敵の陣地へと突進します。これを見たフランス軍の兵士たちは我も我もと勇敢に後に続いて行ったのです。その結果、この勢いに押されたオーストリア軍は、たくさんの大砲を捨て逃げていったのです。

 

 

司令官であっても、兵士たちと共に戦い同じようにテントで眠るナポレオン。兵士たちの心を掴んだナポレオン擁するフランス軍は、ついに、ヨーロッパ最強のオーストリア軍に勝利したのです。

 

「フランス万歳!!」

「ナポレオン将軍万歳!!」

 

 

 

フランスにもたらされた平和な日々

(イギリスがエジプトを手に入れようとしている)

(その前に、エジプトをフランスの味方にしてしまおう)

 

ナポレオンは、イタリアから戻って数ヶ月しか経っていないにも関わらず、次の戦に向かいます。いざエジプトへ!

暑さで兵士たちがバタバタと倒れていく中、砂漠でアラビア人の軍隊がフランス軍を叩き潰そうと待ち受けていました。それでも、フランス軍はよく戦い、馬の戦いでは負けたことのないアラビア軍を打ち負かし、カイロへと進みます。

 

ここでナポレオンは学者たちとピラミッドや古代文字を研究し、砂漠に水をひくことを話し合います。(よし、運河を切り開こう)。

この計画を進めさせている間、ナポレオンは遠くパレスチナやシリアまで進出しトルコ軍と戦います。パレスチナといえばキリストがいたところ。ヨーロッパのどこの国の軍隊も行ったことのない遠い遠いところまで、ナポレオンは進んだのです。

 

 

エジプトに来て1年。。。

 

ナポレオンはパリにいました。反政府デモが起こっていたのです。

(国内でいつまでも争っていては駄目だ)

 

エジプトやシリアでは、イギリスが邪魔してきます。イタリアには、またしてもオーストリアがたくさんの軍隊を送り出してきています。

とうとう議会に乗り込んでいったナポレオンは、議会を作り直し、これまでの悪いやり方を改めていったのです。役所で働く人たちにきちんと給料を払うようにし、インフラを整備し、警察の力を強くし、犯罪を減らし、貧乏人の子供でも皆学校へ行けるようにしていったのです。

 

税金は公平に。銀行を作り産業を盛んに。キリスト教信仰も許すことにしました。こうしてフランスには十数年ぶりに平和が訪れたのです。

ナポレオンは良い法律作りにも熱心です。こうして、フランス人は皆同じように法律で守られ、平和な暮らしを送ることができるようになっていったのです。

 

 

 

「できない」という言葉はない

ある時、皆が「それは絶対に無理だよ」といった雪のアルプス越えをやってのけ、またしてもオーストリア軍を負かしました。

ナポレオンは英雄となり、さらに数年間平和な日々が続いたのですが、フランスが栄えるのを嫌ったイギリスが、フランスの商船をとらえ、エジプトに残っていたフランス軍に不意打ちを食らわせます。

 

「うむむっ、イギリスめ!許せんっ!」

 

この頃のナポレオンは世界征服を目論んでいました。「イギリスを叩き潰し、フランスを世界一の国にするのだ!」

(フランスの皇帝になって自分の思うままに政治をしていくのだ!)

 

「待て待て〜ぃ!フランスは自由の国。せっかく王の政治をやめたんだ。それなのに今度は皇帝を置くなんて絶対に反対だ!」という声もありましたが、これまでのナポレオンの功績を讃え、国民投票でナポレオンは皇帝に選ばれます。

フランスの貴族の子供たちに散々イジメられたコルシカの子は、ついにフランスの皇帝となったのです。この時35歳。

 

 

 

皇帝になってからは、明けても暮れても戦ばかり。

 

こうして、ヨーロッパではロシア以外敵なしの状態になったのです。

(オーストリアとより密になるため、オーストリアの皇女を皇后にせねば)

 

ナポレオンは戦略結婚のためジョゼフィーヌと離婚し、オーストリアの皇女マリー・ルイーズをフランスに迎え結婚します。

 

 

思い通りにならぬはロシアのみ!

 

 

 

ナポレオンの妻、子供

ここで、ナポレオンの私生活をみてみましょう。

 

 

◯ ジョゼフィーヌ(第一の妻)(1763-1814)

貧しい貴族の出身だったジョゼフィーヌはナポレオンと知り合う前、フランス貴族の子爵アレクサンドルと結婚しますが恐怖政治で夫は処刑されてしまいます。ジョゼフィーヌも投獄され、釈放された後、次々と愛人を つくって生活をしていました。その愛人の一人にナポレオンを 紹介され、熱烈なプロポーズを受け結婚。そんなジョゼフィーヌは浮気性で浪費癖が激しかったと言われています。 1804年、夫の皇帝即位により皇后の地位を得た彼女ですが1809年に離婚。しかし、離婚した後も二人は良い友人であり続けたそうです。 最期は風邪をこじらせフランスで没。

 

◯ マリー=ルイズ(第二の妻)(1791-1847)

神聖ローマ帝国フランツ2世(オーストリア皇帝フランツ1世)の名門ハプスブルク家の娘です。ジョゼフィーヌと離婚したフランス皇帝ナポレオン1世と結婚します。年少時より祖国を脅かすナポレオンに怯え、憎しみさえ抱いていましたが、結婚後はそれなりに夫婦仲は良かったようです。そして、 のちにナポレオン2世になるはずだったローマ王を出産。夫ナポレオンの退位後はオーストリアに連れ戻され、他の男性と再婚します。ジョゼフィーヌと違い、あまりファッションにはこだわらず浪費癖はなかったようです。

 

◯ ナポレオンの子供たち

1. ウジェーヌ(1781-1824)

ジョゼフィーヌと前の夫アレクサンドルとの間に出来た長男で、後にナポレオンの養子になります。真面目で誠実で実直な性格で、ナポレオンに最後まで忠実であり続け、 ナポレオンが流されたエルバ島にまでついて行きました。周囲からの信頼厚き男です。

 

2. オルタンス(1783-1837)

ジョゼフィーヌとアレクサンドルの長女でナポレオンに忠実。ナポレオンにとてもかわいがられました。ただ、ナポレオンの妹カロリーヌとは仲が悪かったようです。それでもナポレオンの弟ルイと結婚し3子をもうけます。 その一人が後のナポレオン3世です。

 

3. ローマ王(1811-1832)

ナポレオンとマリーの子で、 後にナポレオン2世としてフランス帝国を統治するはずだった男の子です。父ナポレオンの退位後、 母マリー・ルイ―ズとともにオーストリアに連れて行かれフランスから切り離されますが 、一生父ナポレオンを崇拝していました。気管支が弱かったため、21歳の若さでオーストリアで没します。

 

 

 

もしジョゼフィーヌとの間に子供が生まれていたら…

 

歴史上好きなカップルの一組、ナポレオンと6歳年上の妻ジョゼフィーヌ。。。

 

二人のどこに惹かれるかというと、「偉人」「天才」のナポレオンが浮ついた未亡人に恋し結婚し、妻の浪費・浮気・嫁姑といった泥臭い家庭劇を演じながらも、最後はやっぱりジョゼフィーヌを心の女として想い死んでいったそのプロセスに、愚かしくも温かい人間の心を感じるからです。

もしこれが、偉大な男と完璧な女の組み合わせであったなら、何もかもが出来すぎて退屈きわまりないものだったでしょう。

 

ところで、ジョゼフィーヌは「不実」「贅沢」「浮気者」と悪妻の代名詞のように思われていますが、彼女の振る舞いに悪意はなく、ただ自分の感情に素直で善良な女であったとも言えるのではないでしょうか。

ナポレオンに対しては、「野暮で無骨な年下のチビ!」と見下していたように言われていますが、本当にそうなら、激戦地から次々に送られてくるナポレオンの恋文を後世に残したりはしていないでしょう。

 

もしかすると、帝位に就くほどの強力な運勢を持っていたのはナポレオンではなく、むしろジョゼフィーヌの方だったのかもしれません。

彼にとって究極の『あげまん』だったジョゼフィーヌを、「世継ぎができない」「オーストリアとの戦略結婚が必要だった」ことを理由に離婚してからのナポレオンの凋落ぶりは、歴史が物語る通りです。

 

 

ところで、もしこの夫婦が子宝に恵まれていたら、歴史はどうなっていたでしょうか?

時に「たら・れば」を考える歴史も面白いものですよね。

 

子供は天使であり「かすがい」となったのかもしれませんし、ナポレオンも、ロシアくんだりまで遠征したりせず、適度な所で保守的になって、晩年はそこいらの好々爺になっていたかもしれません。

でも、歴史は二人に子供を与えず、離婚という形で運の流れを断ち切った。神が夫婦を分かったのではなく、歴史がそれを許さなかった……とも考えることができるのです。

 

 
ナポレオンの「栄光と挫折」人生 ⑥ 晩年の転落っぷりときたら…はこちら
 

 

関連記事: