難聴に苦しんだ音楽家ベートーヴェン ② 名曲誕生の源は美少女たち
のちにベートーヴェンはハイドンとの師弟関係について「確かにハイドンは私の師匠だったが、彼から学んだことは何一つない」と公言しています。
そこには、多忙極まるハイドンに弟子に教える時間がなかったという事情もあったのでしょう。また、人格円満社交礼儀を重んじるハイドンと暴れん坊ベートーヴェンとの間に、互いに誤解から生じた行き違いもあったのでしょう。
(個性的な性格のベートーヴェンがかんしゃくを起こしハイドンと喧嘩別れした、とも言われています)
ただ、「ヨーロッパ最大の音楽家になるだろう」と言ったハイドンのベートーヴェン評は偽りのない真心から発せられていますし、「こんなちっぽけな家の中であれほど偉大な人間が生まれたんだ」と感じたハイドン追憶の言葉もまた、ベートーヴェンの真情溢れるものだったのです。
(つまり、ハイドンとの出会いは、ベートーヴェンの音楽人生において必要不可欠なものでもあったのです)
さて
今回は、ハイドンの弟子になった頃から名曲「月光」が生まれる頃までのベートーヴェンの人生を振り返ってみたいと思います。
ハイドン (60) の弟子として再びウィーンに行けることはとっても嬉しかったのですが、気がかりは家族のこと。
しかし嬉しいことに、王様が学費と家族の生活費を援助してくれることを約束してくれたのです。1792年、ベートーヴェン21歳のことです。
「さあ、頑張ってハイドン先生から学ぶぞ」と意気込むも、ハイドン先生は多忙でほとんど会う時間がありません。とはいえ、モーツァルトは前年に35歳の若さでこの世を去っており、頼みはハイドン先生より他にはありません。
それでも、作曲をするにはそのもとになる対位法や作曲の仕方を勉強しないとどうにもなりません。ハイドン先生には申し訳ないと思いながらも、友人に紹介してもらったアルブレヒツベルガー先生に教えを請うことにしました。
いざ習ってみると、今までとはすっかり別のものを学ぶようでびっくり!これでこそウィーンに来た甲斐があるというもの。しかしこれで満足するわけにはいきません。
次は声楽の作曲の勉強をしなければなりません。こうして、次から次へと貪欲に学び吸収していったのです。ちょうどこの頃、大酒飲みで身を滅ぼした父が急死します (享年50)。
あんな父親でしたが、やっぱりベートーヴェンの心は悲しみでいっぱいです。それでも、お世話になっている人たちや弟たちのためにも、立派な音楽家になるため猛勉強するのです。
1789年に起こったフランス革命は瞬く間にヨーロッパ中に戦争を巻き起こします。ドイツにも進入してきたフランス軍は、ベートーヴェンの故郷ボンの町までも占領してしまいます。これを機に、ボンの王様から送られていた学費がパッタリ止まってしまいました。
(困った。また、音楽の勉強も作曲もダメか。弟たちはどうしているだろう?)
そんな時、一人の紳士が訪ねてきます。ウィーンに来てからお世話になっている貴族の一人、リヒノフスキー公爵でした。リヒノフスキー公爵の立派な屋敷に住むことになったベートーヴェンは、憧れのブルグ劇場に出演することが決定。そして、多くの人たちの期待に応え、舞台は大成功を収めたのです。
楽屋に戻ってくるとリヒノフスキー公爵が真っ先に声をかけます。
「おめでとう!これで君はもう世界のベートーヴェンだ。大音楽家だよ!」
1795年、24歳のときです。
ヨーロッパ中にその名を知られるようになったベートーヴェンは、楽譜出版の売れ行きも大成功で、生活も随分楽になってきました。こうなると思い出されるのは弟たちのことです。
(よし、ウィーンに呼び寄せて一緒に暮らそう)
新しく部屋を借り、立派な大人に成長したであろうカスパール(22)とニコラス(20)を呼び寄せてみると、期待とは裏腹に、2人は何とも頼りない有様でした。
それでも、音楽家になりたいというカスパールには良い音楽の先生をつけてやり、薬剤師になりたいというニコラスは学校に入れてやりますが、次第に生まれつきの怠け癖が出てきて、怠ける、サボる、小遣いをせびる…
(両親のいない弟たちだ。今にしっかりするだろう。)
そう思い直しますが、しまいには小遣いどころか作曲の原稿を勝手に出版社に売ったりする始末。
・・・
ヨーロッパの各地を回った演奏旅行でも大盛況だったベートーヴェンは帰宅後、
「自分の力でどのくらいやれるかやってみたらいい!」と、2人を別々の部屋に住まわせます。
そして、ピアノを教えるかたわら、新しい作曲や演奏会にも精を出すとともに、多くの名曲を生み出していったのです。
ある日のこと、一人の美しい少女がベートーヴェンにピアノの教えを受けに来ました。彼女の名前はテレーゼ。ハンガリーからウィーンに出て来ていた貴族ブルンスビック伯爵の長女です。初めてテレーゼを見た時、今は会うことも出来なくなったボンのエレオノーレを思い出したほどでした。
「先生、よろしくお願いします」
言葉も丁寧で、声も美しい少女でした。
どんなことがあってもレッスンを休まないテレーゼ。真面目で本当にいいお嬢さまです。ベートーヴェンはテレーゼが好きになりました。テレーゼのことを考えていると、楽しい空想が湧いてきて、作曲の仕事も意外なほど早く進むようになりました。
(よし、テレーゼのために曲をかいてみよう)
テレーゼは、思いがけないベートーヴェンからの贈り物に涙が止まりません。この日の記念にテレーゼもまた、ベートーヴェンに自分の自画像を贈ったのです。
「ありがとう。テレーゼ」
油絵の裏を返してみると、そこには「稀なる天才、偉大なる音楽家、良き友へ」と書かれてありました。
※ この曲こそ、私たちがよく知る「エリーゼのために」です。本来は「テレーゼ (Therese)のために」という曲名でしたが、悪筆で解読不可能だったことが原因で「エリーゼ (Elise) のために」になったとされています。
・・・
1800年、29歳のベートーヴェンはテレーゼの友情に支えられながら変わらず大活躍を続けます。この頃、テレーゼのいとこで教え子のジュリエッタにも曲を作ってあげます。これがあの有名な「月光ソナタ」だったのです。
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