難聴に苦しんだ音楽家ベートーヴェン ① モーツァルトの弟子となるも…

 

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン (1770〜1827年) は何よりも自然が大好きで、自由と平和を愛し続けた音楽家です。20代で耳が聞こえなくなり、一度は自殺まで思い詰めますが、強い意志で見事立ち直ります。

多くの名曲を残してくれましたね〜

 

ところで、年の終わりに世界各地でベートーヴェン作曲の「第九交響曲」が演奏されるのはなぜだと思いますか?私はこう思うのです。

それはきっと、ベートーヴェンが最後にたどり着いた人間の喜び、自然の喜びが、聴く人の心にいつも新しい希望を掻き立ててくれるからだと。

 

 

小さな音楽家

僅か12歳にしてボン (現ドイツ領) の宮廷礼拝堂でオルガンを弾く任務を任されたベートーヴェン。お手当てを貰えるといいます。そのことを大好きなお母さんに話すととても喜んでくれました。ベートーヴェンが3つのときに亡くなった、宮廷音楽団の楽長だったおじいさんもきっと天国で喜んでいることでしょう。

おじいさんがいた頃は、ベートーヴェン一家の暮らしは豊かで幸せな生活を送っていたのですが、父がアル中のようになり、ろくに仕事をしなくなってしまったので、苦しい生活を強いられていたのです。

 

ベートーヴェンには、まだ小さい二人の弟がいました。

「お母さん、泣かないで!きっと僕が、おじいさんのような立派な音楽家になってお母さんたちを楽にしてあげるから!」

 

そもそも、ベートーヴェンに熱心にピアノを教えたのはアル中の父でした。彼はこう考えていたのです。

「ベートーヴェンを、ヨーロッパ各地を回り稼いでいる少年ピアニスト・モーツァルトのような天才にしあげて早く金儲けしよう」

 

そんな目的もあって、父はスパルタで昼夜を問わず、遊ぶ暇も与えず練習を強いたのです。何度も「もう音楽の勉強なんてやめてしまおう」と思ったベートーヴェンですが、苦労しているお母さんのことを思うと…黙って耐え続けるしかなかったのです。

その後、宮廷音楽団の楽長ネーフェ先生に教えを受けるようになった10歳のベートーヴェンは、ピアノのほかに、オルガンやバイオリンも大人顔負けの腕前になっていたのです。

 

周りの大人たちは「このままいったら第二のモーツァルトになれるぞ」と信じてやみません。ネーフェ先生に曲を作ることも教わったベートーヴェンは、この頃既に立派な曲を作曲できるほどになっていたのです。

ただ、正直ベートーヴェン少年にとってこの頃は、苦しい血のにじむような長い年月でもありました。お母さんを楽にしてあげることだけを支えに頑張っていたのです。

 

 

 

憧れの音楽の都ウィーンへ

音楽と花の都ウィーン

13歳になったベートーヴェンは、正式に宮廷音楽員となります。宮廷の礼拝堂でオルガンを弾く宮廷音楽団の一員となったのです。そしてもう一つ、貴族ブロイニング家でピアノを教えることにもなりました。

 

ブロイニング家には4人の子供がいましたが、優しいブロイニング夫人はただ1人の女の子であるエレオノーレと末っ子のローレンツの2人に「ピアノを教えてほしい」とお願いします。

エレオノーレはベートーヴェンの一つ年下、ローレンツは5つ年下でした。貧しい家に育ったベートーヴェンは、はじめドギマギと戸惑いますが次第に慣れていきました。

 

・・・

 

1787年、16歳になったベートーヴェンは王様の許しを得て、ついに憧れのウィーンへ勉強に行くことになります。気がかりなのはお母さんのこと。父は相変わらず酒場で喧嘩ばかりしています。13歳の弟カスパールは傲慢でかんしゃく持ち、11歳のニコラスはワガママでひねくれ者です。

 

それでも…

ウィーンはこの当時、オーストリアだけでなくドイツ帝国全体の首都で、ドイツ皇帝のいる花の都でした。それに、ハイドンやモーツァルトを輩出しているウィーンは、世界中の若き音楽家たちの憧れの地でもあったのです。

 

 

 

モーツァルトに弟子入り

さっそく憧れのモーツァルト(30歳) を訪ねますがガッカリです。作曲活動で忙しかったこともあるのでしょうが、どことなく心の冷たい人に感じたのです。しかし引き下がるわけにはいかないベートーヴェンは

「先生、どうか私を弟子にしてください!」

 

するとモーツァルトは何か感じるところがあったのでしょう。ベートーヴェンにこう言います。

「うむ、そうか。ならば君の得意の曲を一つ弾いてみてくれないか。」

 

そこでベートーヴェンは、即興曲を弾くことにしました。即興曲とは、その場で自分で作って弾く曲のことです。ベートーヴェンは即興曲にとても自信がありました。

 

しかし、聴き終わったモーツァルトはこう言います。

「ご苦労。なかなかいい腕前だが、もう少し勉強したまえ。」

 

はいそうですかと引き下がるわけにはいかないベートーヴェンは、

「先生、お願いです。もう一度即興曲を弾かせてください。今度は先生からお題を出してください。それに曲をつけてみます。」

 

「ほー、熱心だねー。ならばこれで弾いてみたまえ。」

 

♪♪♪〜♪♪♪♪♪♪~…

 

初めは冷たい顔つきで聴いていたモーツァルトは次第にその素晴らしい曲の動きに心動かされ30分ほど経つと、

「これは素晴らしい!こんな素晴らしい即興曲の大家がこの世の中にいようとは思わなかった!ありがとう!」

 

そう言うと、隣の部屋にいた友人たちに

「諸君!! この少年の名はルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン。よく覚えておきたまえ。きっと今に世界中に知れ渡るに違いない。」と言ってくれたのです。

 

師匠と弟子、モーツァルトとベートーヴェン

 

こうしてその日からモーツァルトの弟子として作曲の勉強をすることを許されました。

ところが喜んだのもつかの間、突然、ボンの父から「母、病気」「胸の病気悪化」「危篤、すぐ帰れ」の手紙が届きます。

 

 

最愛の母、死す

帰宅したベートーヴェンに母は「もう会えないと思っていたけれど、会えて嬉しいよ。どうか、世の中のためになるような立派な音楽家になっておくれだよ。お母さんの最後の願いだよ。」

こうして、お母さんはベートーヴェンの手厚い看病の甲斐もなく、息を引き取ったのです。1787年夏、享年40。

 

父は相変わらず酒浸り。2人の弟たちはまだ何もできません。

(あー、これでもう音楽の勉強はできないな…)

 

悲嘆に暮れるベートーヴェンのもとに一通の手紙を届きます。エレオノーレからでした。これを機に、再びブロイニング家でピアノを教えることになったのです。

翌1788年、再び宮廷音楽団に迎えられることになったベートーヴェンの夢は、再びウィーンへと大きく広がり始めたのです。

 

・・・

 

1790年、ボンの宮廷にハイドン先生が立ち寄るという嬉しいニュースが入ってきました。

(よし、今度はハイドン先生の弟子にしてもらおう)

 

 
 
難聴に苦しんだ音楽家ベートーヴェン ② 名曲誕生の源は美少女たち

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