マハトマ・ガンジー “不屈の意志で世界を変えた男 ” の人生

 

20世紀初頭、大英帝国の植民地だったインドでは、圧政と重税による貧困に苦しんでいました。

裕福な階級の家に生まれたガンジーはエリートとして育ち、19歳でイギリスに渡り弁護士となりますが、仕事のために同じくイギリスの植民地だった南アフリカを訪れた際、「人生で最も大切な時間だった」と振り返ることになる事件に遭遇します。

 

列車で依頼主の元に向かう途中、一等席に座っていたガンジーは車掌から「インド人のお前は貨物車に移れ!」「有色人種は出ていけ!」と迫られたのです。

 

「この理不尽な差別に屈してなるものか!」

 

当時南アフリカでは、インド人たちの自由は制限され、ひどい弾圧を受けていました。外国人登録証の携帯までも義務付けられていたのです。

ある日、町を歩いているところを咎められたガンジーは、その警官の目の前で登録証に火をつけます。怒った警官はガンジーを殴りつけますが、「いかなる暴力にも屈しない」という思いで耐え抜きます。

この後、ガンジーが始めた運動は数千人規模にまで膨れ上がり、ついに、南アフリカ政府に外国人登録証の携帯義務の廃止を約束させたのです。

 

 

孤軍奮闘から「人種差別」と闘ってきたガンジー。次から次へと「これまで誰もやり遂げることのできなかった人種差別との闘い」に勝利をもたらしたガンジーの行動を、以下でみていきましょう。

 

 

マハトマ・ガンジー!祖国インドの独立を目指して

人種差別、インドの独立を牽引した男マハトマガンジーの写真

1915年、ガンジーは22年ぶりに祖国インドに帰ります。当時、インドの独立運動を担っていたのは「国民会議派」でしたが、彼らの政治運動は都会の富裕層の支持を集めるにとどまっていました。

ガンジーはこれとは一線を画し、農村を中心に民衆運動を展開します。南アフリカでの経験から、人口の大半を占める農村の人々が立ち上がらなければ独立は不可能だと考えたのです。

そして、「イギリスに依存している暮らしを変えよう」と訴えたのです。

 

1919年、警戒を強めた総督府は「集会禁止令」を発布し、抗議集会が開かれると軍隊を出動させます。死者が数百人も出てしまう大惨事まで起きます。

これに対しガンジーは民衆に「皆さんは彼らを八つ裂きにしたいでしょう。しかし、敵を赦すことは罰するより気高いということを、どうか忘れないでほしいのです。」と呼びかけるのです。

 

 

民衆は警察署に火を放ち、22人の警官を殺害したのです。このことに衝撃を受けたガンジーは、独立運動の中止を宣言。ガンジーを裏切り者と非難する声にガンジーはこう応えます。

「暴力では何の解決にもなりません。今こそ、立ち止まって考え直さなければならないのです!」

 

これに対し総督府はガンジーを「民衆を扇動した罪」で逮捕します。街には戒厳令がしかれ、武力による独立運動の弾圧が激化していったのです。

 

・・・

 

1929年、インドの民衆運動に再び火がつきます。「このままではまた武力衝突になる」と危機を感じたガンジーは、再び運動の先頭に立つことになります。

 

 

「塩の行進」

塩の行進と非暴力で独立を勝ち取ったマハトマガンジー

 

1930年、61歳になっていたガンジーは、海に向かって歩き始めます。当時、インドでは法律によって塩の製造が禁止され、輸入された塩には法外な税がかけられていました。

その不当性を訴えるため、400km離れた海まで行進しようというのです。ガンジーがこの「塩の行進」を提案した時、「ガンジーのやり方は生ぬるい!」と非難する者もいました。

 

のちに初代首相となるネルーも「なぜガンジーは塩という小さな問題にこだわるのか」と納得しませんでした。イギリス側も当初は「ガンジーの行進は物笑いの種だ。放っておいて問題ない」と考えていました。

それでもガンジーは歩き続けます。民衆は心を強く揺さぶられ、やがて行進する者は膨れ上がり、ついに、目的地の海に到着。

 

ガンジーは、砂浜に自然に結晶した塩の塊を取り上げこう宣言します。「この塩で大英帝国を根底から揺さぶるのです。たとえ手首を切り落とされようとも、掴んだ塩を離してはいけません。インドの誇りはこの塩にあるのです!」

 

 

非暴力を貫いた民衆

塩の行進、非暴力でインドの独立を目指した男ガンジー

この運動は500万人が参加する大運動に発展します。イギリス本国のマクドナルド首相は鎮圧を指示。警官は棍棒に鉄板を巻き、人々を容赦なく殴りつけます。

しかし、人々はガンジーの訴える非暴力・不服従を貫きます。殴られても殴られても立ち上がって海を目指す民衆の姿は大英帝国を震え上がらせます。逮捕者は10万人超。そしてガンジーも捕らえられてしまうのです。

 

 

アメリカの新聞はこのデモを一面トップで報じます。

「これほど悲惨な光景を見たことがない!その痛ましさに、私は顔を背けざるをえなかった。驚くべきはインド人の規律。彼らは残虐な暴力に対し非暴力を完全に貫き通した!」

 

こうして国際世論は高まり、ついにイギリス政府は「今後、ガンジーを大英帝国の交渉相手とせよ」と通達。釈放されたガンジーは1931年、総督府に塩の製造と政治犯全員の釈放を認めさせたのです。

 

 

非暴力は世界へ

インドの歴史上の有名人ガンジー

1947年、インドはついに悲願の独立を勝ち取ります。しかしその独立はガンジーを悲しませるものとなります。ヒンドゥー教とイスラム教が対立し、分離独立に向けた争いが起こったのです。

各地では流血の惨事が起こり、50万人以上が死亡。悲嘆に暮れたガンジーは、争いが止むことを願い、死を覚悟した断食に入ります。日に日に痩せ細っていくガンジーに民衆は心を痛めます。そして、争いを続けていた人々はついに武器を捨てたのです。

 

1948年、断食を解き、祈りを捧げるために外に出たガンジーを凶弾が襲います。ガンジーの宗教融和策に反発する者の犯行でした。享年78。

 

ガンジーの死後、非暴力運動は世界各地で受け継がれていきました。人間の尊厳と自由を訴えるガンジーの精神は、今も人々の胸に生き続けているのです。

 

 

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