幕末最強の剣士 (剣客) は結局のところ誰?るろうに剣心?

 
幕末期 (江戸末期) には、多くの剣士たちが我も我もと歴史にその名を残しました。有名な新選組隊士たちをはじめ、幕府方と尊王攘夷派の志士たちの中には、今に語り継がれる数々のエピソードを誇る剣の達人たちが数多に存在していたのです。

そんな彼らの中で、“最強” を誇る幕末の剣士はいったい誰だったのでしょうか?

 

ちなみに、「幕末の三剣士」なる言葉があって、これには誰が選ばれているのかといえば、男谷信友 (直心影流)、島田虎之助 (直心影流) そしてもう一人が大石進 (大石新影流) か比留間与八 (甲源一刀流) のいずれからしいのです。

え〜、皆さんは、このうち誰か一人でもご存知だったでしょうか?おそらく、相当マニアックな歴史好きでなければ知らないはずです (笑)。

 

「強かった剣士」として、一般的には「坂本龍馬、沖田総司、高杉晋作、岡田以蔵、中村半次郎」などの有名 & 人気どころの名前が出てくるのではないでしょうか。

あれこれ考えるだけで楽しいですよね〜!

 

そこで今回は、様々な見地から総合的に検証してみて、最後に、私自身の私見によるランキングを発表してみたいと思います♡

 

 

 

 

時代はまさに剣術ブーム ♡

 

 

幕末は「剣術ブーム」だったこともあって、数多くの有名な剣士たちが登場しました。

1853年の黒船来航により、「日本はいずれ外国に攻め込まれ占領されるのでは?」という懸念が蔓延し、剣術が再び注目されたのです。武士に限らず、農民の中にも剣術を志す人たちが増えていたのです。

 

そんな中、幕末期に特に人気だった流派には「鏡新明智流」(士学館)、「北辰一刀流」(玄武館)、「神道無念流」(練兵館)などがあります。

この3つは、後世「幕末江戸三大道場」と呼ばれ、いずれの道場も多くの門下生を抱え、数々の優れた剣士たちを輩出しています。

 

 
ほかにも、

「柳生新陰流」や宮本武蔵 (1584〜1645年) の「二天一流」、東郷重位 (ちゅうい・1561〜1643年) の「示現流」なども有名です。

このように、幕末期は特に江戸には道場が乱立しており、現実問題として各道場は経営維持のため門人集めに必死でした。そのため、こうした先人の偉業を宣伝文句にするなど、ほかとの差別化をはかることが大切だったのです。

 

ただ、、、

戦国時代とは異なり、彼ら同士による直接の対戦はほとんど行われていませんので、「誰が一番強かったのか」を決めるのは非常に難しいのです (苦笑)。

 

 

 

 

「剣豪」龍馬を恐れた徳川幕府

 

 

2017年夏、坂本龍馬 ( 1836〜1867年 北辰一刀流 土佐藩出身) が書いた直筆の手紙が新たに発見されました。この手紙は、彼が暗殺される1年前の慶応2年(1866年)に、兄・権平らに送ったものです。手紙の前半には、その年の1月に遭遇した「寺田屋での襲撃事件」が詳細に記載されています。

幕府は、薩長同盟を仲介した龍馬を指名手配し、潜伏先だった旅館「寺田屋」を襲撃したのです。このとき、数に勝る幕府の役人は、龍馬を追い詰めながらもなかなか斬り込めませんでした。

 

なぜなら、龍馬のもつ拳銃が脅威だったこともさることながら、龍馬が「剣の達人」であるのをみな知っていたからです。終始尻込みしていた幕府の役人たちは、ついには彼を取り逃がしてしまいます。

つまりは、「好きな歴史上の人物」ランキングでよく第一位を獲得する人気者・坂本龍馬も、「最強の剣士」候補の一人なのです。

 

彼の実力を物語る証しとして、彼が道場で塾頭を任されていた (北辰一刀流の免許皆伝) ことや、道場主の娘と結婚を許されていたことなどが挙げられます。

 

 

 

 

長州藩士の面々も強かった!?

 

 

初代内閣総理大臣として誰もがその名を知る伊藤博文 (1841〜1909年 神道無念流) は、萩の松下村塾で学んだあと、江戸に出てきて「神道無念流」に入門し剣術の腕を磨きました。

長州藩の倒幕運動を主導し、身分を問わない志願兵による奇兵隊の結成や、第2次長州征伐では海軍総督として幕府軍を敗走させるなど、いわば「天才軍略家」といったイメージのある高杉晋作 (1839〜1867年 柳生新陰流) ですが、実は「柳生新陰流」の免許皆伝ですし、江戸留学中は神道無念流を学んでいます。

 

桂小五郎と名乗っていた幕末期の京都での潜伏活動などから、「逃げ回る人」「臆病者」のイメージが一般に定着してしまっている木戸孝允 (1833〜1877年 神道無念流) は、実は「神道無念流」の免許皆伝であり、「幕末江戸三大道場」のひとつと呼ばれた同流練兵館道場に入門すると、1年で塾頭になった実力者です。彼が得意の上段に竹刀を構えると、その気迫に圧倒される相手が続出したと言われています。

 

 

 

 

☆ 1万円札のあの人も実は優れた剣士だった!?

 
1万円札と慶應義塾大学で有名な福澤諭吉さん (1835〜1901年 立身新流 豊前国中津) は、日本の近代化への一翼を担った蘭学者、著述家、啓蒙思想家、教育者として知られていますが、実は彼も優れた剣士でした。

 

 

若い頃から「立身新流」の居合いを学び、成人の頃には免許皆伝となり、その甲斐あって幕末期に何度か遭遇した「暗殺の危機」を脱しています。

維新後も、彼は晩年に至るまで「1日1000本の居合い抜き」を日課としていました。まさに「文武両道」を自身で体現した人物といえます。

 

 

 

 

実戦で強かったとされる剣士たち

 

よく「実戦で強かったのは誰ですか?」と聞かれることがありますので、ここで何人か紹介しておきましょう。

 

 

◉ 龍馬を斬った男?

佐々木只三郎 (1833〜1868年 神道精武流 陸奥国会津)
 

 
幕府講武所の剣術師範だった彼は、脇差を使用する小太刀術の達人で、「小太刀日本一」と呼ばれる実力者です。清河八郎暗殺のほか、京都において見廻組を率い、新選組とともに尊攘派志士から恐れられていました。

「坂本龍馬暗殺」については、見廻組隊士だった今井信郎の証言により、「佐々木只三郎が実行犯だった」とされています。

 


 

◉ 片手抜刀が得意!

河上彦斎 (かわかみ げんさい) (1834〜1872年 片山伯耆流 肥後国熊本)
 

 
彼は片手抜刀を得意とし、左膝が地面に着くほど低い姿勢からの逆袈裟斬りで、一瞬にして相手の息の根を止める必殺技の使い手でした。

同じ攘夷派でありながら、三条実美は「彦斎が生きているうちは枕を高くして寝られぬ」と彼を恐れ、一説では「新選組ですら、京の街では河上彦斎を避けて通った」ともいわれています。

 

ただし、実際の彼は身長が150cmほどの小柄で色白。人気マンガ『るろうに剣心』の主人公のモデルにもなっています。

 


 

◉ 新選組最強!

沖田総司 (1842〜1868年 天然理心流 武蔵国江戸)

 

 
新選組一番隊組長であり撃剣師範だった彼は、「隊内最強」とうたわれ、得意技の「三段突き」を武器に、池田屋事件をはじめ数々の任務で活躍しました。「本気で立ち合えば、局長であり自らが属する天然理心流宗家でもある近藤勇よりも実力は上」といわれた天才です。

新選組結成以前の道場時代は塾頭を務め、将来は流派の後継者と目されていましたが病 (結核) に倒れ、慶応4年 (1868年) 江戸で亡くなりました。

 


 

◉ 伝説級の神ワザ

「人斬り(中村) 半次郎」(桐野利秋   1838〜1877年  示現流 薩摩藩)
 

 
「人斬り半次郎」の異名を持つ彼は、屋根の軒先から雨だれが地面に落ちるわずかの間に刀を3度抜き、3度鞘 (さや)に納めたといわれるほどの「示現流」の達人です。

西南戦争では西郷隆盛に従いますが、敵だけでなく、おじけづいた味方の兵も容赦なく次々と切り捨てるため、西郷から「兵が足りなくなる」と刀を取り上げられ、以後は木刀を腰に差していたといわれています。

 


 

◉ 暗殺のプロ

岡田以蔵 (1838〜1865年 鏡心明智流 土佐藩)
 

 
当初、土佐勤王党のメンバーだった彼は、武市瑞山 (半平太)らの指示で王政復古運動の妨げとなる要人暗殺に従事し、「天誅の名人」と呼ばれました。一方で、彼は一時期、勝海舟やジョン万次郎のボディガードも務め、襲撃してきた刺客を瞬時に撃退しています。
 

 

 

 

 

女性の剣士もいた!

 

♡【男装の美剣士】♡

中沢琴 (1839頃〜1927年 法神流 群馬県)

 

幼少時より父・貞清から「法神流剣術」を学び、長刀は父にも劣らぬ実力だった彼女は、実兄の中沢貞祗 (さだまさ)とともに「浪士組」(新選組の前身)に参加します。

 

 

その後、彼女は「新徴組」の一員として、江戸薩摩藩邸の焼き討ち事件や戊辰戦争を戦いました。庄内での戦いでは、官軍の砲火の中で十数人の敵兵に囲まれるものの、数人を切り伏せて包囲を突破したといわれています。

身長約170cm、顔は面長で色白の美人だったことから、維新後は求婚の申し出が多々あったようです。しかしながら、「私を (剣で) 打ち負かすことができたら」の条件に、それを満たす相手が現れぬまま生涯を独身で過ごしました。
 

 

 

 

 

結局のところ、誰が「幕末最強の剣士」?

 
比較は非常に難しいのですが、、、

 
やはり最強は「この人物」ではないでしょうか。

 

 

1位:「白井 享 」(しらい とおる) (1783〜1843年  天真伝一刀流)

 

 

男谷信友千葉周作斎藤弥九郎などを倒した大石神影流の大石進から面、小手をとって完勝したほどの腕の持ち主だとされています。生きた時代が幕末というよりも江戸時代末期といった方が適切な気もしますが、相当強かったのは間違いありません!

 


 

2位:「黒田正好」 ( くろだ まさくに)  (駒川改心流)

 

 

息子で弟子の正郡師は、17歳の時に榊原鍵吉の道場で師範席の隣でお茶を飲まされるだけで稽古に参加出来なかったそうです。理由は、正郡師の実力が榊原鍵吉の弟子よりも圧倒的に上だったから。

ちなみにこの榊原鍵吉も「直心影流」免許皆伝で、家茂警護のために上洛した江戸では、土佐浪士3名を一人で一瞬にして切り伏せた武勇伝を持ちます。当然この黒田正好も、情報こそ少ないのですがかなりのツワモノでした!

 


 

3位:「平山行蔵 」(ひらやま こうぞう) (1759〜1829年  講武実用流)

 

 

剣術、槍術、軍学、柔術、馬術、弓術、砲術など、武術と呼べるものは全て奥義を極めた伊賀忍者です。生活振りは鎌倉時代の武士その者で、男谷信友も呆れるほどストイックな人でした。

 


 

4位:「河上彦斎 」 (かわかみ げんさい)    (1834〜1872年 片山伯耆流 熊本藩)

 

 

上述した河上彦斎は、尊王攘夷派の熊本藩士で、幕末の四大人斬りの一人とされています。アニメ「るろうに剣心」のモデルであることからもわかるように、波乱万丈の人生を歩んでいます。

明治維新後も、攘夷を強固に主張し続けたため、藩と新政府に危険視され斬首されました。

 


 

5位:「島田虎之助 」 (1814〜1852年 直心影流)

 

 

島田虎之介は男谷信友の弟子であり、勝海舟の師匠だった男です。のちに男谷信友らと共に「幕末の三剣士」と称されるまでになりました。比較すると、最終的には師匠の男谷信友より強かったのではないでしょうか。

 

 


 

 

さて、これらの剣豪たちは直接対決をしたわけではないので実力の優劣のほどは定かではないのですが、私なりに以上のような順位をつけてみました。・・・みましたが、正直皆実力拮抗だと思います。

 

ほかにも、

山岡鉄舟や千葉栄次郎など、強者たちは山のように存在します。

 

 

もし彼らが現代に生き、進歩したスポーツ科学や医療、トレーニング法をもとにさらなる実力を開花させていたとしたら、、、

 

そんな妄想を膨らませてみると楽しいですよねっ♡

 

 
 


最終更新日:2017/12/06