上杉謙信はなぜ生涯独身を貫いたの?

 

景虎こと上杉謙信は戦国時代の越後国 (新潟県) の武将・戦国大名です (1530〜1578年)。後世、「越後の虎」「越後の龍」「越後の獅子」「軍神」などと称されています。

そんな上杉謙信は、生涯妻をめとらず禁欲生活を貫いていました。そのため、「不犯(ふぼん)の聖将」などと神格化されることもあります。謙信のように「禁欲」を貫いた戦国武将は非常に稀少であり、それこそが謙信の強烈な “個性” ともなっているのです。

 

しかし、

当時の常識から考えて、妻帯しない行為は為政者に望まれるべきものではありません。実子のない謙信…結局彼は養子を求めなければならなくなり、これがもとでのちに「内乱」が起こってしまうのです。

謙信が、これほどまでにリスクの高い「生涯不犯」を生涯貫いたのはいったいなぜなのでしょうか?

 

当然謙信だって「妻帯や生殖が重要な政治」だということは理解していました。彼自身、「三十歳にもなって妻帯しないのは好ましくない」と家臣に縁談を世話していたりします。

それではなぜ謙信は不犯し、妻帯を避けたのでしょうか? 一般的には、「性指向説」「宗教戒律説」「性的不能説」の三つの説が聞こえてきます。それぞれ検証してみましょう。

 

 

 

① 「性指向説」

 

つまり、上杉謙信は戦国武士に流行した(とされる)男性間の同性愛、すなわち男色への傾倒から異性愛を受け入れられなかったとする説です。俗っぽい説ではありますが、後例として江戸時代の徳川家光が挙げられるように、安易に否定できるものではありません。

書状に、「少弼(謙信)ハ、若し(若衆)数奇のよし、承り及び候」と書き残していることからも史料的裏付けがないわけでもないのです。

 

ただ、これは将軍と関白が謙信のいない席で、酒を楽しみながら交わした冗談交じりの噂話にすぎません。あくまで、「謙信は若衆が好きらしいですよ」といった伝聞なのです。

それにもし、彼が本当に同性愛者だったとしても、「男色以外はしたくない」と言って異性婚を拒否した戦国武将がどれほどいたでしょう?世継ぎは絶対に大事なので、男色という理由だけで妻子を持たない理由にはならないのです。

 

 

ちなみに、若い頃の謙信は以下のような恋歌を残しています。

「つらかりし 人こそあらめ 祈るとて 神にもつくす わかこゝろかな」

 

これは、「想うだけでつらくなる人がいる。しかし何を祈ろうか。我が心は神に捧げているのに」と解釈されます。つまり、信仰のため、恋愛感情を抑えねばならない──そういう苦悩を詠み上げた和歌なのです。

もしこの歌が同性相手への歌なら、同性愛すら「神にもつくす」ために避けていたことでしょう。逆に、異性愛に基づくものであれば、女性に興味がありながら不犯を通していたことになります。どちらにしても、「同性愛への傾倒」説は成立しないのでは?

 

 

 

② 「宗教戒律説」

これは、仏法への帰依と人格形成を志すとともに、軍神( 毘沙門天や飯綱明神)に功徳を求めて、「不邪婬」の戒律を守ったという説です。

江戸時代に書かれた『越後軍記』では、天文二十一年(一五五二)正月十五日、二十三歳の謙信が群臣を集め、毘沙門天に「自分は天下の乱逆を鎮め、四海一統平均したいと考えています。もしこの願いがかなわなければ、速やかに病死させて下さい」と祈り、魚肉、色欲を断ったと記しています。

 

多くの史書がこれに同調し、不犯の理由を「軍神への帰依」によるものと位置づけたため、この見方が広く浸透したのです。一応、文献にもありますし根拠としては申し分ないように思われますが、出所が後世の軍記…というのがどうにもひっかかりますね。

より良質の史料に目を転ずればどうでしょうか。弘治元年(一五五五)冬、謙信は大徳寺の門を叩いて、「宗心」の法号とともに「三帰五戒(さんきごかい)」を授かります。五戒とは僧の修行者が授かるもので、不殺生(殺さず)・不偸盗(奪わず)・不邪淫(犯さず)・不妄語(騙さず)・不飲酒(飲酒せず)の誓いをいいます。

 

 

ただ、謙信は大国の勇猛な戦国大名です。殺生と無縁でいられるはずがありません。遺品「馬上盃」や辞世「一期栄華一杯酒」からも窺えるように、彼は酒をひどく愛していました。

晩年には北陸地方で領地を切り取っており、「不邪淫」以外は明らかに全滅です。いずれも拡大解釈で乗り切ったとの言い訳が可能かも知れませんが…

 

受戒後の謙信は、「宗心」のもと国政から遠ざかり出奔したことがありますが、結局は祖国の安否が気になり、法号を捨て、大名に戻りました。私的な心情(信仰)よりも、公的な役割(政治)を重視したのです。彼にとって、信仰は絶対の価値観ではなかったのです。

 

 

 

③ 「性的不能説」

①と②は少し弱い説でしたね。では、「性的不能説」はどうでしょう?肉体的に性交渉が不可能だったという見方です。裏付けとなる史料には乏しいのですが、ありえなくもありません。でも、もし本当にそうだったとすれば、周囲の人々が謙信を当主に推すわけがありません。

実子をなしえない若者に、一国の未来を託すなど好ましい話ではないのです。”当主が妻子を持てない”…、戦国期にはあまりにも致命的すぎます。

 

「性指向」「宗教戒律」「性的不能」、、、いずれも違うとすれば答えはどこにあるのでしょうか?

 

 

 

「名代家督」が不犯の理由?

上杉藩の公式記録『上杉年譜』には、謙信が晴景家督を譲られた時、「晴景嫡男成長の時に至りては速やかに家督を渡すべし」と約束したことが記されています。つまり、晴景嫡男の後見役として “一時的に家督を預かる中継ぎ当主だった” とされているのです。

こういった変則的な家督相続は戦国期には多く見られ、けっして珍しいものではありませんでした。

 

川中島の戦いのイメージ

 

結局、謙信は “晴景のため” に生涯不犯を通したというのです。もし、謙信が妻帯し実子が生まれてしまったら…兄の子に家督を返上することが難しくなってしまうのです。

こうして「名代家督」の立場を堅持するため、妻帯を拒み、その決意を固めるために神仏へ戒律を求めたのです。毘沙門天に宣誓する前から色欲を避けていたのも「三帰五戒」を授かったのもこのためなのです。

 

しかしながら、謙信が22歳の時に兄晴景は病死し、その子も元服前に早世してしまいました。相次ぐ嫡流の死に直面した謙信は、すでに神仏の前で不犯を誓っており、いまさら妻帯することもできず、他家から養子を取らねばならなくなっていたのです。

 

 

 

酒好きでグルメだった上杉謙信☆

 占星術などで上杉謙信をみてみると、まず、「冬の海のようにゆったりとした器の広い人物」で、春に向かってパワーを蓄積し計り知れないエネルギーを持っている人だったとされています。また、「おおらかで明るく遊び好き」とも。

そんな謙信はグルメで日本酒が大の好物だったようです。戦場でも、馬上杯というごっつい酒器を使って呑んでいたほどの酒豪なのです。新潟と言えば米どころであり酒どころですよね。なるほどです♡

 

越後のおいしい日本酒を呑んでいる時が、謙信にとって至福の時だったに違いありません。

 

自らを毘沙門天の化身と称し、生涯妻を持たなかった謙信。謎が多く、実は女性だったのでは?という説もまことしやかに囁かれています。それもこれも、凡人には理解できないカリスマだったからこそなのでしょう。

 

「四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒」

 

これは謙信が残した辞世の句と言われています。人生を「一盃の酒」と例えるあたり、やはり謙信はただ者ではありませんね。

 

もう一つの辞世の句はこちらです。

 

極楽も 地獄も先は 有明の 月の心に 懸かる雲なし

 

 

 

 

 

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