「裏切り」「寝返り」の心理を関ヶ原の戦いに学ぶ

「関ヶ原の戦い」は文字通り、「天下分け目の戦い」でした。この戦いで、当初「勝利は間違いない」と見られていた石田三成率いる西軍は、わずか1日で敗北。

 

一般的には「小早川秀秋による裏切りによって勝敗が決まった」とされていますが、その裏切りを後押しした「真の裏切り者」の存在はあまり知られていません。

 

何より、石田三成はなぜ「勝利するはずだった」戦で敗れてしまったのでしょうか?裏切りって本当に怖いですねー。

 

そこで今回は、あなたの暮らしにもきっと役立つであろうことを戦国武将石田三成に学んでみたいと思います。

 
 

関ヶ原の東軍勝利を決めた「一族」とは?
 まず、石田三成率いる西軍が当初優勢という見方が強かったこと、徳川家康の東軍が小早川秀秋の「裏切り」によって勝利を収めたこと、それらは紛れもない史実です。
 
しかし、「小早川秀秋の裏切り」を誘発した「本当の裏切り者」が存在したことはあまり知られていません。

 

小早川秀秋自身、「裏切り」の決断を最後まで迷い続けていました。その小早川秀秋に「裏切り」を最終的に決断させるきっかけをつくった「ある戦国武将」がいたのです。

それは「毛利一族」…

 

 

しかしここではそのことはあまり掘り下げません。なぜなら、今回のメインテーマは「裏切り」。

裏切り者は何も小早川秀秋や毛利一族だけでなく、ほかの多くの大名も追随して裏切っていることに着目したいのです。

 

彼らはなぜ「裏切った」のでしょうか?

 

この「裏切り者」への道を選んだ彼らの動機を探っていけば、そこから、現代社会にも活かせる礎のようなものが見えてくるようにも思えるのです。

 

 

 

そもそも、西軍が負けたのは全て「裏切られた」三成のせい?

「裏切り」「寝返り」の心理を関ヶ原の戦いに学ぶ

まず、小早川秀秋をはじめとする多くの武将たちが西軍を裏切った理由として、「石田三成は嫌われていた」という説があります。

しかし、理由は本当に「それだけ」だったのでしょうか?

 

 

参考までに、東軍と西軍の当初の勢力関係は以下の通りです。

 

東軍:主に東国の大名を中心に、豊臣秀吉の子飼い福島正則や黒田長政なども含む徳川家康を中心とする総勢7万4000。

西軍:西国の大名が中心で、宇喜多秀家、小西行長、小早川秀秋など総勢8万2000。ちなみに、西軍の「名目上」の総大将は石田三成ではなく毛利輝元です。

 

 

数の上では西軍が若干有利。しかし、関ヶ原の戦いは、大軍同士の戦いにも関わらずわずか半日で決着がついてしまいました。

開戦時、東西両軍の兵力差はさほどなく、東軍を包囲するように布陣した西軍が有利な状況でした。

 

しかし、戦闘に加わらない西軍大名が多く、戦況はしばらく拮抗します。やがて、家康の鼓舞に東軍がやや勢いを増すと、これを見た小早川秀秋はじめ西軍の一角が東軍に寝返り、この結果、石田三成ら西軍はなすすべなく敗走することとなったのです。

 

 

 

裏切り者の「4つの動機」

関ヶ原の戦い勢力図マップ

 

■動機1:「冷遇への不満」

小早川秀秋 (筑前名島〔福岡県〕30万石)などは、「冷遇」されたことに対する個人的な恨みで裏切ったとされています。

小早川秀秋はもともと豊臣秀吉の妻、北政所(きたのまんどころ、おね)の甥で、子どもに恵まれなかった秀吉の養子となり「後継者候補」といわれていました。

 

しかし、秀吉に実子「秀頼」が誕生すると、一大名の小早川家に養子に出されてしまいます。その後も、戦場での失態から領地を没収され左遷されるなど、石田三成ら豊臣政権から「さんざん、冷遇」されました。

のちに小早川秀秋は旧領を取り戻しますが、このとき手を貸してくれたのが徳川家康です。こういった経緯から、小早川秀秋は裏切ることになったのです。

 

 

■動機2:もともと「東軍」と仲がよかった

吉川広家(きっかわ ひろいえ、出雲・隠岐〔島根県〕14万石)などは関ヶ原の戦い以前から、黒田長政をはじめ多くの東軍の大名と非常に親しく、しかも東軍の勝利を確信していました。

しかし、「諸事情から自らの望む陣営に加われなかった」のです。

 

吉川広家は西軍の「名目上」の大将、毛利輝元のいとこ。毛利家が西軍に参加するという意向に従い、広家も「表面上」これに追随します。

ただ、水面下では「開戦前」から家康に内通しており、最後まで戦闘に加わらず、西軍の進撃を妨害し続けていました。

 

 

■動機3:身内に反対された

「鍋島勝茂」(なべしま かつしげ、肥前佐賀〔佐賀県〕35万石) の場合は「本人の意志」ではなく、身内からの強い反対にあって寝返りました。

勝茂は、はじめは「独断」で西軍に属し東軍の拠点を次々と攻略していたところ、本国の父、直茂から「いますぐ東軍に所属せよ」との命令が届き、関ヶ原の決戦を前に急きょ、戦線を離脱します。

 

 

■動機4:恥も外聞もない単なる裏切り

戦国時代には多くみられた、典型的な「なりふり構わぬ」生き残り戦略上の裏切りもありました。その代表は、小川祐忠(おがわ すけただ、伊予今治〔愛媛県〕7万石)でしょう。

小川祐忠は、六角家 → 浅井家 → 織田家 → 明智家 → 柴田家 → 豊臣家 と、「恥も外聞もなく」生き残ってきた大名です。彼にしてみれば、関ヶ原の戦いもそうした「生き残り戦略」の延長にすぎなかったのでしょう。

 

 

他にも、どっちつかずの日和見状態でありながら、「東軍が勝つ!」と見るや、体よく勝ち馬に乗ろうとした者もいました。数からいえば、これが一番多かったでしょう。

 

 

結局、「石田三成への恨み」は少なかった?
「裏切り」「寝返り」の心理を関ヶ原の戦いに学ぶ

 

まず、結論から申しますと、「石田三成本人への怨恨」から裏切った大名は少ないようです。

もともと石田三成を嫌っていた大名がいたとすれば、はじめから家康側についています。石田三成は、「関ヶ原の決戦当日をむかえるまではそれなりに西軍をよくまとめていた」とも思います。

 

とはいえ、石田三成が西軍の大名から好かれていた様子はなく、「石田三成に人望がなかった」というのも本当のようです。

もし仮に、石田三成が人望を備えていたら、西軍が勝利していたことでしょう。

 

 

 

脇が甘かった石田三成

多くの裏切りが起きた背景には「徳川家康の画策」がありました。家康は事前に周到な策をめぐらせ、裏切りを誘発していたのです。

一方の石田三成は、内通を見抜けず脇が甘かったと言わざるを得ません。

 

このように、「勝利する者」は事前に周到な準備をし、逆に「敗者」の側から見れば、裏切る者には何かしらの「動機」があり、それを冷静に見抜けなかったことが敗北につながりました。

あなたの人生においても、生き抜くための「ヒント」をこの関ヶ原の戦いから存分に学んでいただきたいと思います。

 

 

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