幕末のヒーロー永倉新八の友情と義を貫いた人生
豪胆にしてけっして信念を曲げなかった「新選組最強の剣士」永倉新八は、勤王派に命を奪われることなく明治維新後の世を生き長らえることができました。
幕末に活躍した永倉新八。新選組でただ一人生き延びた彼は、どんな人生を送り、何を考え、晩年をどう過ごしたのでしょうか?
そこには、本人にしかわかりえない厚い友情と正義があったのです。
時は幕末。江戸にある試衛館という貧乏道場を一人の若者が訪ねてきます。
「天然理心流、試衛館、近藤勇です。」
「永倉新八と申します。」
永倉は、のちに新撰組最強の剣豪と言われる男です。このとき23歳。剣の道を極めようと全国の道場を訪ね歩いているところでした。
試衛館は実践第一。通常の木刀より太くて長い、本物の剣の重さに近い木刀を使用していました。永倉はいたく気に入り、「是非、ここで修行させてください」と頭を下げます。
試衛館の仲間たちに永倉が惹かれたのは、彼らの生い立ちによるところもありました。こうして、仲間たちとの稽古三昧の日々が始まります。後輩もできました。5歳年下の藤堂平助 (永倉の親友となる男です)。
「自分たちの剣の腕をいつか役立てたい!」そんな思いが募っていきます。
永倉が試衛館に来て2年が経った頃、幕府が京の都の治安を守るため、広く人材を募集しているとの報せが。条件は、体力に自信があり、精神力が強いこと。身分は問わない。
このときの覚悟を詠んだ永倉新八の詩が伝わっています。訳すとこうです。
「世のために剣を振るおうとする志。仲間と誓いあったその志を、竹のようにまっすぐ最後まで貫いてみせる!」
隊の名は新撰組。
旗には、幕府への忠義を意味する誠の文字。
新撰組は、都の治安を脅かす者たちの取り締まりに力を尽くします。
やがて、永倉たちの剣の腕が天下に轟く出来事が起こります。池田屋事件です。
午後10時40分、新選組のメンバー4人は池田屋に到着。敵は何人いるかわかりません。近藤勇と沖田総司は2階に向かいます。そこにはなんと、刀を抜いた敵が20人以上。
「御用改め!手向い致すにおいては容赦なく切り捨てるぞ!」
近藤はこう叫び、新撰組の威信をかけた戦いが始まったのです。
永倉新八と藤堂平助は1階へ。敵は次から次へと現れます。額を切られ、戦いを続けることができなくなった藤堂。そして、沖田も持病の肺結核のため戦闘から脱落。ついには、近藤勇と永倉新八だけが残されました。しかし、敵の数は圧倒的。。。次第に押されていきます。
(このままではやられる…)
そのときでした。
別動隊の土方歳三たちが駆けつけ、形勢は一気に逆転します。突入から1時間半。都を火の海にしようという浪士たちを見事鎮圧。新撰組の活躍で無事、都の治安は守られたのです。
池田屋事件により、新選組は大阪での取り締まりも任されるなど、幕府からも一目置かれるようになりました。隊士を増やし、大きな組織へと変貌していく新撰組。
しかし、そのことが、永倉と仲間たちに暗い影を落とすことになります。
池田屋事件から半年あまり経った頃のことです。近藤勇が変わってしまったのです。皆と一緒に練習しなくなり、「近藤さん」ではなく「局長」と呼ぶように、と。
隊の雰囲気は、江戸の試衛館の頃とは大きく異なり、永倉も違和感を覚えます。この頃の近藤は、他の同志を家来のように扱い、命令を聞かねば剣にうったえる、、、
隊の規律を乱す者は、江戸の頃からの仲間でさえも容赦なく処罰されました。新撰組の変化に、永倉と藤堂は戸惑いを隠しきれません。
(これ以上、事態が悪くならなければいいが…)
やがて、永倉の不安は現実のものとなります。近藤にはついていけないと隊を離脱する者が相次ぎます。その中には親友藤堂平助の姿もありました。
近藤勇「永倉くん。離脱した者たちを成敗してくれ」「ただし、藤堂だけは助けてやってくれ」
永倉は待ち伏せしました。
そして…
剣は乱れ、斬り合いになり、永倉率いる新選組のメンバーは離脱組の元仲間たちを切り捨てます。永倉は藤堂を逃がそうとしますが、、、
他の隊士が藤堂を切り殺してしまったのです。
永倉「局長、藤堂は死にました…」
近藤「そうか、新撰組を守るためだ、堪えてくれ」
永倉新八29歳のときのことでした。
この後、幕府に反発する動きが全国で巻き起こり、戦いの火の手があがります、新撰組は幕府軍の一員として奮戦しますが、薩摩長州を中心とする新政府軍に敗北。徳川幕府は滅亡したのです。
時代の激流の中、永倉たちも波乱の運命を辿ることになります。
土方歳三は戦死
沖田総司は病死
近藤勇は斬首
生き残った他の隊士たちも命を狙われることになります。仲間と散り散りになった永倉新八は北海道松前に身を隠していました。名前を変え、人目を忍ぶようにひっそりと暮らす日々。
(俺だけ生き残ってしまった…)
それから3年…
永倉新八は思いもよらない知らせを目にします。それは、戦没者の慰霊を許すというもの。
「そうだ!新撰組の慰霊碑を建てよう!それが生き残った俺の務めだ!」
4年ぶりに上京した永倉新八は資金集めに奔走しますがことごとく断られてしまいます。
「逆賊に慰霊碑など、まっぴらごめんだ!」
「新撰組?ただの人斬りよ」
「斬首されるとき、命乞いをしたそうだな。近藤は臆病者よ」
屈辱の中、それでも何とか友の供養をしたいと願う永倉。
「何としても、この明治の世に、俺が知っている本当の姿の新撰組を伝えていかねば。後世に間違って伝えられることがあっては断じてならん!」
「自分たちはちゃんと正しいことをやってきたということを書き残しておきたい。それができるのは生き残った自分しかいないんだ。」
新撰組の汚名を晴らしたい。永倉新八は一生懸命筆を走らせます。しかし、どうしてもわからないことがありました。それは近藤勇の最期のこと。
(近藤さんの最期はいったい?)
永倉は方々を駈けずり回り、ついに、近藤の最期の姿を知る旧幕府関係者にたどり着きます。
新政府軍は降伏・謝罪するよう近藤勇に三回迫った。
「それがし、朝廷の軍に降るつもりはござらん。他の隊士たちも同じ気持ちでありましょう。何度聞かれようとも謝罪などはありえません。」
近藤勇はその最期のときまで幕府に忠義を尽くすという義を守り抜いたのです。誇り高く貫き通したのです。
こうして、永倉新八が書き上げた手記をもとに、もう一度新撰組を見直そうという動きが広がっていきます。明治9年、永倉新八は悲願だった慰霊碑を建てます。そこには、新撰組の仲間112人の名前を刻みました。
晩年を北海道の小樽で過ごした永倉新八。そして、大正4年(1915年) 、永倉新八は77歳の生涯を閉じたのです。
永倉が最後まで愛用していたチョッキが子孫の手に残されています。その内側には、新撰組の仲間たちと誓いあったあの言葉が残されていました。
それは、友情の証であり、生きた証なのです。
「世のために剣を振るおうとする志。仲間と誓いあったその志を、竹のようにまっすぐ最後まで貫いてみせる!」
手記の終わりに永倉新八が一番伝えたかった一文があります。
ここに書かれていることはけっして作り話ではない。全て実話である。