【東日本大震災】一週間後に遺体で見つかった息子たち
2011年3月11日、東北地方を襲った東日本大震災により多くの尊い命が奪われました。悲喜こもごもの思いは、被災者の数と同じだけあります。未曾有の大災害後、東北はいまだ復興の途上にあるのです。
大切な人を失い、故郷を追われ、学校は廃校…
仕事が見つからず、仮住まいの人も少なくありません。何より、いまだにおよそ2,500人の行方がわかっていないのです。
「震災のこと、もがき苦しんでいる私たちのことを忘れないでほしい!」
宮城県の沿岸部で被災し夫を津波で流された50代の主婦は、避難所から仮設住宅、復興住宅へと住まいを移し、現在は家業を再建し忙しい日々を過ごしています。
「今でも、何かの拍子に震災当日の光景がフラッシュバックしてくることがあるんです。」
押し寄せる津波…
一瞬繋がった手が離れ流されていく夫の姿…
「しかし、いつまでも泣いてばかりはいられません。もう一度、信じて生きていかなければ…」
多くの人たちが今なお苦しみの渦中にいます。「どうして自分たちが…」そうした中で、小さな灯に希望を託して歩み始めている人たちもいるのです。
宮城県仙台市に日本一の山があります。標高わずか3mの「日和山」です。
日和山は江戸時代、土砂を積み上げて築かれました。それから長い時間を経て、周囲の風景に溶け込み、自然の一部とみなされ、「山」として認定されたのです。
1991年に「日本一低い山」として認定されたこの山は、当時6.05m。頂上から太平洋を見下ろす抜群の眺望を誇っていました。知る人ぞ知る名所だったのです。
ところが、1996年、大阪の天保山が4.5mとされ日本一の座を奪われてしまいます。
10m超の巨大な津波は小さな日和山をいとも簡単に飲み込んでしまいます。そればかりではありません。この地区に暮らしていた人たちの家々はほぼ全壊。300人以上の人たちがここで亡くなってしまったのです。
津波の威力は凄まじく、薙ぎ倒された大木や家屋がグルグル回りながら襲ってきたといいます。
現在も、この地区は災害危険区域に指定され住宅を建てることができません。住民は事実上、故郷を喪失してしまったのです。
しかし、悪いことばかりではありません。
山肌を削り取られた日和山は2014年、標高3mと判明しました。18年ぶりに日本一の座に返り咲いたのです。
私も実際に、この山に登ってみました。
大津波の爪痕が今も深く刻まれたままの、荒涼とした風景が広がります。階段状の登山口から山の頂を目指し、三歩進むと中腹、さらに三歩進むと山頂です。そこには、こんもりと石が積み上げられています。眼下には美しい大海原が広がっています。
頑張ろう東北!
この地区で自宅を流されてしまったSさんは、「信じられなかった。悔しかった。でも、日和山は小さくなりながらも踏ん張って頑張りました。だからこそ再び、日本一の称号を手にすることが出来たんです。私たちも頑張らないといけませんね。」と語ってくれました。
「多くのものを失いましたが、私たちには日本一の日和山があります。たとえ故郷に住めなくても、愛着ある土地を忘れてはいけません。」
日和山では、国内最高峰の富士山山開きに合わせて7月1日に山開きを行っています。ちなみに、元旦の日和山はご来光を拝みに来る多くの人たちで賑わうそうですよ。
Yさんもその一人。日和山から目と鼻の先に住んでいたYさんは、二人の息子を亡くしました。大災害から一週間後に遺体で見つかった息子たちは、何か悟りきったような穏やかな顔をしていたそうです。
小さい頃から当たり前にあった日和山…
それは人々の心の拠り所です。「大変なことが起こってしまったけれど、ここだけは残ってくれた」
「もうここに住むことはできませんが、いずれ緑豊かな場所にして、日本一の日和山に多くの野鳥が再びやって来るようにしたいです」
大津波に耐えて日本一の座を奪回した日和山。そこには、艱難辛苦を乗り越えつつある人々が、筆舌に尽くせぬ思いを託す何かがあるのです。みんなのそれぞれの願いが込められているのです。