終活Q&A : 死後の「位牌」はどう処分すべき?

 

残りの人生をよりよく生きるために、葬儀の進め方から墓、遺言、遺産相続にいたるまで、元気なうちに準備をしておく「終活」という言葉が定着しました。

書店には「エンディングノート」のコーナーが設けられるなど、自分の死に方を自分でプロデュースすることにも関心が集まっています。

 

ところで、

「2年前に亡くなった夫の位牌に毎日話しかけています」

「生前、妻が大好きだったカステラを毎日あげて手を合わせています」

 

このような独り暮らし生活を送る高齢者が年々増え続けています。しかし、子供のいない彼らは、「自分が死んだら位牌はどうなるんだろう?」と心配でなりません。

 

そこで今回は、死後の位牌の扱われ方についてまとめてみました。

今後の参考のために…

 

 

そもそも位牌とはどういうもの?

長い歴史の紐解いてみると、位牌の原型が登場したのは紀元前3世紀頃の中国だそうです。

仏教は紀元前5世紀頃インドで生まれましたが、魂があの世からこの世に何度も生まれ変わるという「輪廻転生」を教えるインド仏教には、墓も位牌もありませんでした。

 

位牌を「故人の魂が宿るもの」と位置づけた葬儀方法は、中国の唐の時代に生まれた禅宗が徐々に広めていったものです。

それから長〜い年月が経ち、日本に禅宗が伝わったのは鎌倉時代。そう、日本では鎌倉時代から位牌が存在するようになったのです。

 

室町時代初期の僧の日記に「昔は位牌はなかった」という記述が残っています。位牌の使用は当初、将軍や高僧といった特別な人たちの葬儀のためのものでした。

室町幕府を開いた足利尊氏の位牌に刻む文字をどうするか、相談する手紙も残されています。それを見ると、鎌倉時代に執権を務めた北条時頼や時宗の葬儀でも位牌が作られたことがわかります。

 

ちなみに、庶民の間に位牌が広まったのは江戸時代中期以降です。

位牌の歴史は鎌倉時代から。庶民には江戸時代中期から。

 

 

位牌のあり方は地域や宗派によって様々

位牌のあり方は地域や宗派によって様々です。例えば、親鸞が始めた浄土真宗では「位牌は作らない」を基本にしていますが、私の住む地域の浄土真宗では位牌を作っています。ビジネスなのでしょう。

いずれにせよ、日本全国多くの地域で位牌が作られています。その作った位牌、最終的にはどうなるのでしょう?

 

一般的には、三十三回忌といった一定の年数が経ったところで、墓地に埋めたり焼いたりします。

つまり、現代の日本において位牌は「遺された人たちがいなくなった (記憶がなくなった) 時点で価値がなくなり、保存する必要はない」とされているのです。

 

 

浄土真宗で位牌を作らないのはなぜか?

まず第一に、親鸞自身「父母の孝養のために念仏を唱えたことは一度もない」そうです。

お釈迦様も「死んだ人に向かって読経しても意味がない」と考えています。死んだ人の運命は本人の行いで決まるもので、子孫がお経を唱えて変えられるものではない、と考えられているのです。

そもそもお経は「生きている人が幸せになるための教えを記録したもの」で、生きているときに聞いてこそ意味があるのです。

 

第二に、最善の供養とは先祖が喜ぶことをすること!親にとって何が一番嬉しいかと言えば、子が幸せに生きることでしょう。

こういったことから、「全ての人の幸せを願い」「阿弥陀仏だけを信じて正しく幸せに生きよう」というのが浄土真宗の教えなのです。

よって、そもそもの考え方からすれば位牌は不要なものとも言えるのです。

 

もちろん、遺族の心の拠り所にもなり得るという意味では十分に意味のあるものなのかもしれませんが…

 

 

位牌をどうすべきか?一番良い解決法は

そもそも、現代日本の葬儀スタイルは、江戸時代に「民衆を管理統治しやすくするため」「寺が檀家を作り利益を得、存続し続けていくため」に作られた仕組みです。けっして仏教本来の教えに基づいているものではありません。

 

そう考えると、「位牌をどうすべきか?」の解決法として一番良いのは「位牌を作らないこと」が一番なのです。お墓も然り。

ただ、そうしてしまえば寺院はおろか葬儀関連産業に携わる人たちは失業してしまいます。

 

そこで、現実的に一番良い方法は、「自分が死んだときに位牌を棺に入れてもらう」こと。

そうすれば、一緒に旅立つことができますし、遺された家族も皆、温かで幸せな気分になれるのではないでしょうか。

 

元も子もない言い方ですが、「位牌」に仏教上の意味は何もありません。

位牌とは、歴史においては将軍家などの特別な家系においてのみ、風習として長年大事に守られてきたものにすぎない…ということを知っておきましょう。

繰り返しになりますが、それは仏教本来の教えではなく、一つの慣習にすぎません。

 

死後、ある程度年数が経てば、個人の霊は「祖霊」という先祖全体の霊の中に入っていくと考えられています。

子孫が生きている間は「忘れないで覚えていること」が何よりの供養ですが、本質的には「故人は忘れられることが成仏」なのです。

 

 

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