父の「生きた証し」を母の眠るお墓へ…

戦後70年以上が経ち、幼少期に家族との辛い別れを経験されてきた方たちも高齢となり、自身の終活を納得のいくものにしていかなければなりません。

思い残すことのないように・・・

 

そこで今回は、長崎県に住む70代の男性にスポットを当てて、彼にとっての終活というものを一緒に考えていてもらいたいと思っています。

短い文章ですので、是非、最後までお読みください。

 

 

 父の最後の言葉 

「男の子だからどんなことがあっても泣いたらあかん!お母さんの言うことをちゃんと聞くんだよ。」

 

これが父の最後の言葉でした。

 

長崎に原爆が投下された1945年8月9日、当時7歳だったTさんは、ソ連との国境に近い満州の鶴立にいました。父は日本政府から派遣された満州の官吏。この日父は、出勤直後に家に戻り

 

「すぐに逃げなさい!」

と真っ青な顔で母に伝え、息子たちを集めこう言います。

 

「もう会えないだろう…」

 

そして、一人一人に言葉をかけ、父は再び家を出ていったのです。

 

 

 戦後、苦難の道を歩むTさん一家 

この日、ソ連は日本との中立条約を破棄し、満州への侵攻を開始したのです。

近所の日本人は100人ほどで集団を作り、祖国を目指して徒歩で南下。道中、何度もソ連兵に見つかり、金銭や腕時計などの貴重品を奪われます。働けそうな男は中学生くらいでも連行され、若い女性は乱暴されました。

 

Tさんの家族は、いつ殺されてもおかしくない過酷な状況の中、何とか生き延びます。

飢えに苦しみ、カボチャのつるやジャガイモの茎など、あったものは何でも食べました。そしてようやくハルビンに着いたとき、季節は冬。そこからは列車で南下することにしたのです。

 

このとき母は妊娠しており、いったん父の家族が暮らす撫順市に立ち寄り、身を寄せます。

 

撫順の橋
撫順の橋

 

翌年3月に四男 (Tさんの弟) が生まれるも、母は心労で母乳が出ず、弟は一ヶ月後に死亡…

 

7月、船に乗り、ようやく日本(京都)に帰国できました。そこからは、父の本家と母の実家のある長崎へ向かいます。

 

 

 ようやく日本に帰国するも… 

母は実家の縁側でよく泣いていました。

 

1962年、父の「戦時死亡宣告告知書」が届きます。肩書きは「陸軍上等兵」。これに対し、母は驚き憤ります。「主人は人を殺すような軍人ではない!」

遺骨もなく…

 

しかし、「軍人」を認めなければ国からの遺族手当は支給されません。稼ぎ手を失った家計は苦しく、最後は認めざるを得ませんでした。

 

 

 戦後70以上経ち… 

太平洋戦争から70年以上が経ちました。戦争の悲惨な記憶は次第に薄れ、その歴史は社会からは少しずつ忘れ去られていこうとしています。

けれども、海外の戦場で愛する家族を失いながらも「遺骨が戻らない遺族」が今なお大勢いらっしゃいます。満州で生き別れた父の「生きた証し」を探し続けるTさんもその一人です。

 

(父が最期を迎えたシベリアの地…)

 

「遺骨がなければ石ころでもいい。現地を訪れ、父が生きた証しを手に入れたい。それを母の眠る墓に入れ、早く安心させてあげたい。」

 

そうすることで、長かったTさん一家の戦争はようやく終わるのです。

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