自然界の法則から生と死を見つめる話

 
「最期は自分らしく、私の好きにさせて!」

近年、夫とその先祖が眠る墓に入りたがらない妻が増えてきているそうです。けっして夫婦仲が冷め切っていたわけではないのです。にも関わらず…

 

いったいなぜ?

 

理由は様々ですが、

一言で言ってしまえば価値観の相違と言えるかもしれません。人生の最後に夫婦仲を試されるのが終活…なのかもしれません。

どちらかが感じたしこりや、心の隙間に生じた小さなさざ波は、すべて「墓」に繋がっているのです。

 

そこで今回は、「終活」の一つでもあるお墓の問題について少し話してみようと思います。

 

 

 

 人が死んだら骨はただの物質 

いきなり「過激な言葉だ」と思う方もいるかもしれませんが、まず最初に申し上げたいのは「骨には何も宿っていない」ということです。

 

人が死ねばその骨はただ自然に返るだけの単なる物質なのです

 

※ この点をご納得いただけた方のみ、以下読み進めていっていただければと思います

 

とはいえ皆さんは、お盆や命日など何かの節目の日に、お骨の入ったお墓にお参りに行かれるのではないでしょうか。そこには、亡くなられた大切な方やご先祖様を思う気持ちがあるからなのです。

中には、「墓をないがしろにしたらご先祖様が祟って出てくるんじゃないか」などと不合理なことを信じている方もおられることでしょう。

 

しかし、真実はそうではありません。ご先祖様は、未来永劫、何世代にもわたって自分の骨を拝み続けてほしいと思って亡くなったわけではありません。

そもそも死んでしまえば、骨 (ただの物質) には嬉しいとか悲しいといった感情は存在し得ません。骨に意識は宿りませんし、骨はその人自身ではないのです。

 

輪廻転生は存在するのか?

 

 

 

 「パートナーと一緒の墓に入りたくない」という考えはナンセンス 

「夫と一緒の墓に入りたくない」とか「海や山に散骨してほしい」と考えるのは、本来、生き物の生死観自然界の法則の観点からナンセンスであり本質的ではないのです。

たとえ (大嫌いな) 夫と同じ墓に入ることになったとしても、骨はそれを認識することなどないのです。まず、骨への執着から離れてみると、ご先祖様や供養、お墓というものが相対化して見られるはずです。

 

仏教の教えでは、「我」という永続するものは実在しません。生きとし生けるもの、死んでしまったら何かに生まれ変わり、生と死を繰り返し、輪廻転生すると考えられています。

この教えを信じるかどうかはまた別の話になってしまいますが、とにかく、骨は物質でありそこに魂は宿っていないのです。

 

つまり、輪廻転生するにしてもしないにしても、現在の「生」が終われば身体も骨も用済みになるモノなのです。

しかしながら、生前の気持ちの問題として、「嫌いな夫やその家族と同じお墓には眠りたくない」「最期だけは自分らしくありたい」と思う気持ちもわからなくはないのです。

 

 

 

 「供養」する本当の意味 

そもそも、「供養する」という行為において、物質・時間・場所・お墓などは全く関係ありません。ご先祖様や故人を思い出し、彼らが幸せであるよう心の中で念じ、願ったりしてあげることが供養なのです。

 

 

 

 法事や葬式は伝統習俗 

法事や葬式にしても、本来は単なる伝統習俗です。海外では、日本と全く同じような法事・葬式は行われていませんし、そもそも、江戸幕府が民衆を管理・統制するために檀家制度を導入したから始まった伝統習俗なのです。

当時、お寺が発行する証明書を持っていないと「お前、隠れキリシタンだな」と疑われ迫害されたのです。強制的に檀家にさせられたに過ぎないのです。

 

お寺は檀家からお金を集め、法事や葬儀をすれば潤う仕組み…これは現在も全く変わりません。

なので、(これは私個人の意見なので全く気にしないでいただきたいのですが) 檀家をやめたり、お経をあげてもらうお寺を変えたり、仏教そのものの習わしに従う必要性は一切ないのです。

 

一番大事なのは、あなたが故人を想う気持ちなのですから。

 

 

 

 おわりに 

江戸時代に刷り込まれた「思い込み」を排して、お墓や骨といった物質への執着をなくすことができれば、そういった意味での「終活」はする必要がありません。

人の体は消滅したら自然界に返るものであり、死後の骨は自分ではないのですから。もちろん、後世にお墓を継承する必然性もありません。残された人がやりたいように任せればよいのです。

 

ただひとつ、注意していただきたいことは「しなくてもいい」という逆の観念にも捉われないこと。いずれにせよ、「煩悩」や「執着」といったものが存在するから話がややこしくなるのです。

執着することをやめて、もっと自然界の法則から生と死を見つめてみましょう。そうすれば、少しは悩みが軽くなるはずですよ。
 

 


最終更新日:2017/11/29